宗教と倫理の間(17)番外12

○○寺支部 獅子風蓮

美辞麗句の落とし穴

先日の朝日新聞の論壇(平成5年3月9日)に「『国連中心主義』の死角」という投稿が載っていました。

「国連中心主義」といえば聞こえがいいが、現実の国連は、世界平和の脅威となりうる機構を中心として構成され、機能しているというのです。

世界の平和と安全保障に関する国連の拘束力ある決定は、総会ではなく、安全保障理事会に任せられています。

安全保障理事会の決定権は、拒否権を有する常任理事国(米国、ロシア、中国、英国、フランス)に握られています。

常任理事国はすべて北の大国であること、すべて核保有国であること、すべて武器輸出国であることから、南北問題や複雑な民族問題を解決するために国連が役に立つかどうか、疑問だというわけです。

そして「国連中心主義」の死角に陥って、国連を国際正義と混同してはならないとの主張です。

創価学会は、聖教新聞などを通じて「国連中心主義」を誉め讃えていますが、ちゃんと「死角」に気づいていればよいのですが。

それはともかくとして、このように社会通念とは、時に間違っていたり危険なものであったりします。

創価学会が宗門を批判し、自分を正当化するときに使う言葉は、「民主主義」や「人間主義(ヒューマニズム)」や「平和主義」だったりします。

知識人を動員したりして語られるそれぞれの言葉は、たしかにもっともらしく聞こえます。

もっとも創価学会自体が、民主的か、人間的か、平和的かというと大いに疑問ですが、これらを基準として仏法あるいは宗教を批判できるかどうかも、よく考えてみる必要がありそうです。

「民主主義」というのは、長い歴史の中で人類がたどりついた一つの政治的形態であり、貴重な財産であることは事実です。

しかし「衆愚政治」という言葉にも見られるように、おのずから限界を持つものであり、まして人生のさまざまな問題を「民主主義」が解決してくれるわけでもありません。

人の生き死にの問題や宗教的な部分は、多数決で決められるものではありません。

それと同じように、最近の聖教新聞の紙面を飾る、安直な「ヒューマニズム」という言葉にも、落し穴があると思います。

「ヒューマニズム」というと、皆さんのなかには、シュバイツァー博士を思い浮べる人がいるかもしれません。

シュバイツァー博士

今回は、寺村輝夫著『アフリカのシュバイツァー』(童心社、1978年)を参考に、ヒューマニズムの象徴として、シュバイツァー博士のことを考えてみたいと思います。

寺村さんは児童文学者で、『ぼくは王さま』など王さまシリーズその他、多数の著書があります。寺村さんは、野性動物をたずねて5回アフリカを旅行したそうです。そしてだんだん、アフリカ人の生活に関心を持つようになりました。

彼が何人かのアフリカ人にシュバイツァー博士のことをたずねたところ、アフリカ人たちは例外なく、博士のことをよく言いませんでした。

「彼は植民地主義の手先だ」

「われわれはシュバイツァーをにくむ」といった激しい言葉が返ってきました。

これは寺村さんにとって、意外な言葉でした。

たしかに、奴隷としてアメリカ大陸に多くのアフリカ人が連れ去られたことや、長い植民地支配の歴史を考えれば、ヨーロッパ人はアフリカ人の敵と言ってもよいでしょう。しかし、シュバイツァー博士に限っていえば、アフリカ人を救った「原始林の聖者」だったはずです。

「これはおかしい」と思った寺村さんは、帰国後、内外のシュバイツァー博士に関する文献を読みあさり、一冊の本を書きました。それが、この「アフリカのシュバイツァー」という本です。

さて一般の日本人は、シュバイツァー博士のことをどのようにとらえているでしょうか。

シュバイツァーは、1875年、ドイツのアルザス地方に生まれました。

彼は、音楽の才能のある、心のやさしい無口な少年でした。

ある日、けんかをして友だちを組みふせました。その子が悔しそうに、

「おれだって、おまえと同じように肉のスープを飲んでいたら、おまえになんか負けるものか」と言いました。

この言葉を聞いたシュバイツァーは、それから肉のスープを飲もうとしませんでした。自分だけが幸福でありさえすればいいと考えることができない子どもだったのです。

1896年、シュバイツァーが大学生の時、幸福に包まれた自分に対して、「これでいいのか」という疑いが、わき上がってきました。この疑いは、彼の心を苦しめました。そしてついに、

「自分は、30才になるまでは、学問と芸術のために生きよう。それから後は、人の幸福のために働くことにしよう」という決意をするにいたりました。

1905年、30才の時、彼は大学の神学教授となっていました。それに、バッハの研究家として、またパイプオルガンの名手として有名でした。

彼は、教授の肩書きのまま、医学部の学生として勉強を始めました。その後5年間、医学を学ぶこととなりますが、同時に、神学教授として教壇に立ち、牧師として教会の仕事も忘れませんでした。

 おそらくは殺人的な忙しさだったでしょうが、彼はそれをやりとげます。

そうして、1913年、医学博士となりました。また、夫人も博士の計画に協力するために、以前から、看護婦としての勉強を続けていました。

その年の春、ついにシュバイツァー博士は、夫人を伴って、アフリカのフランス領コンゴ(今のガボン共和国)を流れるオゴウエ川をさかのぼり、ランバレネという所に着きました。

博士と夫人は、休む暇もなく、病気の黒人たちの手当てを始めました。

アフリカ人たちの多くは救われ、楽になりました。すると

「白人の魔術師がやって来たぞ」というニュースが広がり、また多くのアフリカ人が、救いを求めてやって来ました。

アフリカ人にとって、それはまさに「奇跡」でした。「魔法」にかけられることと同じでした。

外科手術のために夫人が打つ麻酔の注射は「一度殺してから生き返らせる」不思議な魔法でした。 アフリカ人の目にはきっと、「救い主」が現われたと思えたでしょう。

シュバイツァー博士はにっこりわらい、

「アフリカへ来てよかった。自分の考えは間違っていなかったぞ」と考えたに違いありません。

現地でのいろいろな困難もありましたが、博士は根気よく努力しました。

ところが第一次世界大戦が起こると、敵国人としてフランス軍にとらえられ、ヨーロッパに送り返されてしまいました。

第二次世界大戦後、博士は「生命の畏敬」を訴え、核兵器廃止の声をあげました。

その業績が認められ、1953年、ノーベル平和賞が博士に与えられました。

ざっと、このような内容の伝記を、多くの方は読んだ記憶があるのではないでしょうか。

ところで、シュバイツァーの博士論文は、「イエス・キリストの精神錯乱」という、風変わりなテーマのものでした。

当時のキリスト教信者から救世主・神として崇められていたイエス・キリストのことを、シュバイツァーがどう考えていたのかは、ぜひ書いておかなくてはなりません。

宗教と倫理の間(18)番外13

○○寺支部 獅子風蓮

シュバイツァー博士(つづき)

前回は、最近の創価学会が好んで使う「ヒューマニズム」という言葉に関連して、その象徴ともいうべきシュバイツァー博士のことを書きました。今回はその続きです。

当時のキリスト教信者から救世主・神として崇められていたイエス・キリストのことを、シュバイツァー博士はどう考えていたのでしょうか。

今から二千年前、北パレスチナのナザレというところで、マリアという女性からイエスは生まれました。

30才のころ、家を出たイエスは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、

「まもなく神の国がやって来るであろう」と言い、ユダヤの民に、争いをやめ神に従うよう説得します。

シュバイツァー博士が大学生だったころ、

「自分は、30才になるまでは、学問と芸術のために生きよう。それから後は、人々の幸福のために一生をささげよう」と決意したことを思い出して下さい。博士が、いかにイエス・キリストに打ち込んでいたかが分かります。

イエスの30才と博士の30才。これはシュバイツァー博士の思想を知るために、大変重要なポイントなのです。

さて、イエスは、はじめガラリア地方、のちにエルサレムと、教えを広めていきます。(聖書によれば)さまざまな奇跡を行い、父なる神のもとで人間はみな兄弟であると説いて回るイエスのもとに、多くの信徒が集まりました。

しかし、イエスの宗教運動はパリサイ人には受け入れられず、裏切り者まで現れて、ついにゴルゴダの丘の上で、十字架にはりつけられ、殺されてしまいます。

弟子たちは、イエスが殺されて3日後、この世に復活、つまり生き返ったと信じて、イエスこそ真の救世主(イエス・キリスト)であるとし、新しい宗教運動をはじめます。これが、キリスト教の始まりです。

シュバイツァー博士は、このイエスの生き方に、たいへん興味を持っていました。博士は、それまでにあったイエスの伝記を徹底的に調べ上げ、「イエス伝研究史」という、膨大な本を書き上げ、これによって神学者として世界的に有名になりました。

シュバイツァー博士は、数々の著作の中で、イエスについてそれまでに信じられてきた考え方を打ち破ろうとしました。

それは、イエスは神の子ではないという見方です。

二千年前に、偉い人々の予言により、祝福を受けて誕生したとされているイエス。母親のマリアは、人の子ではない神の子を宿したとされていますが、これは伝説であり、実際は、夫ヨゼフとの間に普通の人間の子どもを産んだのだと言います。

つまり、イエスは、素晴らしい才能と心の持ち主ではあったが、普通の人間にすぎなかったというわけです。

イエスは神の国を作ろうと、いろいろ努力はしたものの、十字架にかかって殺された後も、結局神の国はやって来ませんでした。また、イエスは自分自身のことを救世主だとは一度も言っていません。

これらの事実は、イエスが救世主でなかった証拠だと、博士は考えました。

シュバイツァー博士の意見は、世界のキリスト教徒を驚かせました。神の子と信じていたイエス・キリストが、ごく普通の人間だったというのですから驚くのも当たり前です。しかし博士は、だからといってイエスのしたことはダメだったとは考えませんでした。

人間として目覚め、正義を行い、愛に生きることを教えるイエス。この人の生き方こそ学ばなくてはならない、博士はそう主張するのでした。

シュバイツァー博士は、こういった研究の結果、一つの結論に達します。それは、

「選ばれた人間ならば、現代においても、イエスと同じことができるはずだ」というものです。

さらに、自分が選ばれた人間であり、イエスと同じ道を進もうと思い込むまでになりました。

博士は言います。

「書斎にこもってイエスを研究し、教会でその教えを説くことが自分の仕事ではない。恵まれない人の中に入って、奉仕の仕事を通して、われわれ自身の中に神を見つけようとした」

博士がアフリカ行きを思い立ったのは、長年のイエス研究の、ひとつの結論を見出そうとしたからです。

自分もイエス・キリストになれる---もしかするとたいへん思い上がった考え方かもしれません。そして、ヨーロッパにいたのでは、そんな考え方を、だれも認めようとはしないでしょう。神を欺くものだといって、人々から罵られるでしょう。そのことを博士は知っていました。なぜイエス・キリストになれるか---こういう議論をするのは煩わしかったようです。

そして、「この地球上で、どこか自分がキリストになれるような所はないだろうか?」と探しているとき、博士はパリの宣教師教会のパンフレットを見たのです。

「人しれず死んでいく宣教師。アフリカの中でも最も暗黒といわれる、ガボンのオゴウエ川……。無知非衛生のために、失われていく人命。それを救う医師を求める」

ここではまさに、「救世主」を求めていたのです。

これを契機に、30才すぎのシュバイツァー博士は、イエスと同じように、苦難の道を歩み始めることになりました。

アフリカのランバレネで、黒人の手当をしていく中でシュバイツァー博士は大きな満足感を得ました。

「あわれな黒人どもに、奇跡的ともいえる治療をしてやる。黒人たちにとって、自分は『神』なのだ」

ここでは、神学について煩わしい議論をしなくてすみました。

シュバイツァー博士の病院には、それこそさまざまな種類の病気を持ったアフリカ人がやって来ました。

すぐ手術しなくてはならないような患者が運ばれてきたときのことについて、博士はこう書いています。

「わたしは、この付近数百キロの土地で、彼らを救うことのできる、ただ一人なのだ。後から後からやって来る患者が、みな同じように助かるのは、わたしがここにいるからである。それはまた、わたしの友人が費用を出してくれたからである」

博士は、患者や付添い人に、

「わたしをランバレネによこしたのは、主イエス・キリストなのだよ」と言って聞かせました。シュバイツァー博士は、こうしてイエス・キリストを教えながら、自分が黒人たちのキリストであることをアピールするのでした。

シュバイツァー博士の言葉として、「人間はみな兄弟」というのはあまりにも有名ですが、これは聖書の中にある言葉です。

人間はみな同じ親から生まれてきた兄弟なのだ。皮膚の色の違い、能力の違いなどによって差別されることがないという理想がうたわれているはずです。

ところが、シュバイツァー博士は、著書の中でこうも言っています。

「黒人は子どもである。子どもに対しては、権威をもって臨まねば、何もできない」

「ゆえにわたしは、黒人とつき合うときは、自然に権威を表すように努める。わたしは、黒人に向かって『わたしはおまえの兄弟だ。しかし、おまえの兄である』と教え込んだ」

シュバイツァー博士ともあろう人が、ほかでは兄弟といい、ここでは親子になり、権威をもって臨まなくてはいけないと言います。そしてふたたび兄弟というのはいいのですが、おまえは弟で、弟は兄に従わなくてはならない、それが黒人とつき合う正しい方法であるというのです。

実は、シュバイツァー博士がまだ生きていたときから、アフリカ人たちはこの言葉を問題にしていました。明らかに、アフリカ黒人への差別なのです。

子ども向けの伝記などでは、このへんのところを、みんなぼかして書いてあるようです。


 

宗教と倫理の間(19)番外14

○○寺支部 獅子風蓮

シュバイツァー博士(つづき)

日本では、シュバイツァー博士といえば、アフリカ人を救った「原始林の聖者」として尊敬されていますが、現地のアフリカ人の評価は全く逆であること、またシュバイツァー博士の思想の中には、アフリカ黒人に対する差別意識があったことが、『アフリカのシュバイツァー』の著者、寺村さんにより指摘されました。

シュバイツァー博士は「人間はみな兄弟」といいますが、自分から見ると無知で無能なアフリカ人を、弟として見下し、権威をもって厳しく付き合うのだというのです。「原始的な土人が、高等な学校教育を受けることは、不必要」であるともいっています。

博士は、アフリカ人に医学を教えようとはしませんでした。忙しい仕事の中でしたが、アフリカ人を医者の助手にしようとさえしませんでした。

博士は、黒人が教育を受けると不幸になると考えました。

教育を受けた黒人が、他の黒人を管理するために利用され、黒人社会から疎外されるというのです。また、黒人が必要以上に優秀になると、ヨーロッパ人の言うことを聞かず、逆らうようになるかもしれないからです。

実は、黒人は無知でも無能でもなく、黒人独特のものの考え方というものがあるのですが、それが分からない白人には、アフリカ人がとても怠け者に見えます。

シュバイツァー病院の経営は、ヨーロッパなどの各地から寄せられる寄付と、自分の本の印税などによってまかなわれていましたが、それはけっして十分な金額ではありませんでした。

あるとき博士は、入院病室を広げる必要を感じました。しかし、人を雇う資金がありません。

そこで病室を作るために、治った患者、軽い患者を入院料の代わりに働かせることになりました。

そんなある日、シュバイツァー博士の目に、オリアンゲという黒人が、とまりました。博士がかわいがっていた元患者で、フランス語を教えてもらい、屋根ふき職人として育てられました。

オリアンゲはただぶらぶらと、他の患者が働くのを見ているだけでした。

「おい、おまえ、何しているんだ」と博士が言うと、オリアンゲは、達者なフランス語で、

「きょうは休みですよ、先生」といいます。博士は、怒って、

「オリアンゲ、おまえはもうなおった患者じゃないか。力仕事もできるはずだぞ」

すると、オリアンゲは、

「わたしはインテリです。フランス語だって話せます。わたしの仕事は屋根ふきです。重い木など運ぶわけにはいきませんよ」

「なにをっ!」

博士は、突然、そばにあった木のつるで、オリアンゲをむち打ちました。

「ばかめっ!わたしの苦しみも知らんで、何がインテリだ。アフリカ人は、みんな、休まずに働くんだ」

オリアンゲも黙っていません。

「わたしは、りっぱに働いた。先生の役に立っている。わたしの役目のほかには、働かなくたっていいでしょう」

「理屈を言うな!」

博士はまた、むちを振り上げましたが、今度は、打つ力もなく、オリアンゲを見つめるだけでした。……アフリカ人は、なんて怠け者だろう。ああ、フランス語など、教えるのではなかった。何がインテリだ。ああいう人間は、むちで打っても働かせなくてはならん……

シュバイツァー博士は、もともと、ほかの白人がやるような、黒人をむちで働かせることには反対でした。しかし、オリアンゲのように、教育を受けたために怠け者になっていく姿をみて、他の白人がやっていることが理解できたのです。

アフリカ人は頼まれた仕事しかしません。しかも、目を離すと、すぐに仕事をさぼります。

アフリカ人のやっていることは、外国人には、「自分中心主義」に見えます。だからシュバイツァー博士は「黒人は子どもである」といったのでしょう。

実際、アフリカ人と心を開いてつきあうのは、時間のかかることのようです。

しかし、アフリカ人にはアフリカ人の生活のしかた、ものの考え方があるわけですから、それを理解できれば、真の対等のつきあいかたができるはずです。

オリアンゲはこう言いたかったのではないでしょうか。

「たしかにシュバイツァーはわれわれの病気を治しにやって来てくれた。病気を治してくれることには感謝する、が、病気でないもの、治った者をこき使ういわれはない。われわれにはわれわれのつきあいかたがあるぞ」

そういうアフリカ人の考え方が、博士には理解できませんでした。

ヨーロッパ人にとってアフリカ人は「劣っている人間」とみなされていましたが、アフリカ人は本当に〈文化〉を持っていなかったのでしょうか。

わたしたち日本人もあまり知らないことですが、アフリカの黒人は、一万年もの間、文明を持ち文化を誇った民族だったそうです。ガーナ王国、マリ王国、ソンガイ王国といった学問を大切にする豊かな文化をもった秩序ある王国が、アフリカにありました。アフリカ人は、アフリカ人の国を作り、アフリカ人の文化で栄えていたのです。

ところが15世紀になると、ヨーロッパ人がアフリカ人を奴隷としてアフリカから連れてくるようになりました。

その後コロンブスが「新大陸」を「発見」し、そこに多くのアフリカ人奴隷を送り込むようになりました。

アメリカに奴隷を送り込むために、じつに6000万人ものアフリカ人が殺されたり連れ去られたりした計算になるということです。この数は、現在のアフリカ大陸の人口の、なんと三分の一にあたります。

アメリカ合衆国の独立、南北戦争を経過するうちに、奴隷制度に対する反省が生まれ、イギリスでは、奴隷貿易廃止運動が起こりました。

こうして、奴隷狩りは下火になったものの、アフリカは自由にはなりませんでした。

アフリカ人を奴隷にすることはやめにしたヨーロッパ人でしたが、今度はアフリカで、アフリカ人を使ってもうけることを考えだしたのです。

そのためには、アフリカ大陸のことをよく知らなくてはなりません。こうして「アフリカ探険時代」が始まり、多くの野心的な探検家が、お金目当てに土足でアフリカにのりこんでいきました。

アフリカ人にしてみれば、長い間つづいた奴隷狩りの恐怖がありますから、そうやすやすと探検家を通すはずがありません。つかまえて首をはねたこともあったでしょう。そうなると、

「アフリカ人は首狩りをする野蛮人」ということになります。

このように強引な探検家の多くは、失敗したり命を落としたりしました。

探険が「成功」したのは、キリスト教の「愛」と「信仰」を旗印にした場合が多かったのです。

「奴隷狩りによって魂をけがされたアフリカの人々に、神の福音を!」というわけで、キリスト教の宣教師がアフリカに送り込まれました。とはいうものの、これも探検家です。

この代表的な探検家は、リビングストンです。彼は、ロンドン宣教師協会から派遣された宣教師でした。

「奴隷として人間を売ったり買ったりするのはよくない。人間を売る代わりに、アフリカ人は原料を売りなさい。そして、そのお金でヨーロッパの商品を買いなさい。リビングストンはそういって進みました。

彼が歩いた後には、イギリス商人が入りこみました。

彼らはキリスト教会を建て、会社の事務所を作り、そこにはなんと、イギリスの国旗がはためいたのです。

何人もの探検隊がアフリカに入りこみ、互いに競争して自分たちの国旗を広めるようとしました。 こうなると、もう「探険」ではありません。ヨーロッパ人によるアフリカ占領です。
こうしてアフリカの「植民地時代」が始まりました。

宗教と倫理の間(20)番外15

○○寺支部 獅子風蓮

シュバイツァー博士(つづき)

前回は、アフリカの不幸な歴史をたどってみました。

「奴隷狩り」の時代から「アフリカ探険時代」を経て、アフリカの「植民地時代」が始まりました。ヨーロッパ人によるアフリカの占領といってもいいでしょう。 イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、ドイツといったヨーロッパ列強の国々は、いきなり軍隊を送ることをしませんでした。

多くの探検家たちが成功したように、初めはキリスト教の神父や宣教師を送り込みました。

彼らがアフリカ人の心をなごませたあとに、商人たちが入りこんできました。

商人たちは、本国政府の保護を受け、現地のアフリカ人を使い、ヨーロッパ人に都合のいい作物を作らせました。

ヨーロッパ列強は、アフリカ人から産物を(本国で考えれば)ただ同様で買い上げ、本国であまった工業製品などを、アフリカ人に安く買わせたのです。

これが「植民地」というものです。

そして、商人たちのあとから、国旗をかかげた軍隊がやって来たのです。

いくら勇敢なアフリカ人でも、鉄砲の前にはかないません。そして軍隊は、「アフリカの平和のため」といいながら、どんどんアフリカを占領していきました。

占領地が広がっていくと、今度は同じヨーロッパ人同士がぶつかりあいます。

そのため1884年から5年にかけて、ヨーロッパ十四ヵ国が集まり、「アフリカ分割会議」がベルリンで開かれました。

アフリカ大陸には、本来アフリカ人の〈国〉があったのに、そういったアフリカ人の都合など全て無視して、ヨーロッパ人たちは勝手にアフリカを分割してしまったのです。

しかも、アフリカの現地を全く知らない各国代表者たちが、

「ここはオレの植民地」

「おまえはこっちを取りな」

といったぐあいに、勝手に地図の上に線を引いたものですから、現在のアフリカの地図を見ると、やたら直線の国境が多いのです。

こうして1800年代の終わりには、アフリカ大陸のほとんどがヨーロッパ諸国の手にわたりました。

昨日まで自分の国であり土地であったところに、突然ヨーロッパ人がやって来て、

「ここはオレたちの土地だ」と言われたときのアフリカ人の驚きはどんなだったでしょうか。

自分たちの国を失ったアフリカ人は、植民地の主人国に、税金を納めなくてはならなくなりました。「人頭税」というもので、成人一人あたりこれこれの税を納めろという、全くいわれのない税金です。

税金は、払わなければ罰せられます。ろうやに入れられ、むちでうたれ……。

アフリカ人は、人頭税を払うために、ヨーロッパ人のために、働かなくてはなりませんでした。自分たちは食べもしないし使いもしないようなもの、例えばカカオやコーヒーといったものを、彼らは作らされました。税金を払うためにしかたなく、作りたくないものを作らされたのです。

そして、かんじんのアフリカ人の食べ物は、たくさん作ることができなくなっていったのです。

これではかなわないというので、アフリカ人たちは白人の手の届かない奥地へと、逃げ込むようになりました。彼らにしてみれば当然です。

しかし、奥地には、それこそ猛獣毒蛇がいるし、畑作もできません。そのため、餓死する人たちが続出しました。

さらにもう一つ、黒人たちを脅かしたのが、疫病でした。

奥地に逃れた人たちは、慣れない生活のため、熱帯特有の熱病にかかったり、ねむり病になったりしました。

1900年代のはじめ、このようにして植民地のアフリカ人の人口は減少していきました。

白人たちは、彼らから黒人が逃れていくのをなんとか食い止め、呼び戻さなくてはなりませんでした。

白人たちによって強制的に、奥地から駆り立てられたアフリカ人たちは、疫病とともに植民地に戻ってきました。そして、その地方に入りこんでいた白人の宣教師たちが、熱病にかかって倒れていきました。

1904年、神学者として、哲学者として、バッハ研究家として、オルガン奏者として名をなしていた29才のシュバイツァー青年に、パリの宣教師教会が発行した《コンゴの宣教師団が必要としているもの》というパンフレットが目につきました。

パンフレットには、28才で疫病に倒れた宣教師のことが書かれていました。

シュバイツァー博士は、心を打たれました。

パンフレットには、こんなエピソードも書かれていました。

「アフリカの王が、家来を集めてある任務をいいつけた。

『だれか行くものはいないか』

すると家来たちはいっせいに

『わたくしがまいります』

と言った。

彼らは尋ねなかった。

-----この任務は本当に大切なのですか?

-----王さまはよく考えたのですか?

-----だれか他に、やる者はいないのですか?

-----あしたではいけませんか?

何も尋ねずに、家来たちは出かけていった。そして、任務をはたした」

シュバイツァー青年はしずかにパンフレットを閉じ、アフリカの王の家来のように、何も尋ねず、神のお召を受けることを決意したのでした。何も尋ねずに。

しかし、それははたして正しかったのでしょうか。

シュバイツァー博士は、神に尋ねなくてはいけなかったのではないでしょうか。

-----私がガボンに行くのは、いったい何のためでしょうか?

-----オゴウエ川のほとりのアフリカ人たちは、白人の植民地政策に耐えられずに逃げているのではないでしょうか?

-----それらを呼び戻し、強制的に働かせるために、私が行くのですか?

-----病気で死ぬアフリカ人をたすけるのは、植民地経営をしやすくするため、人口を減らさないようにするためなのでしょうか?

さて、アフリカで医療を行ない、神の道を説くことになったシュバイツァー博士に、やっかいな問題がふりかかりました。

それは、ヨーロッパを舞台にして始まった第一次世界大戦です。 あるアフリカ人は、戦争で何万もの人が死んだと聞いて、

「なんでヨーロッパ人は、みんなで集まって話し合いをしないんですかね」とか、

「ヨーロッパ人は、むやみと人を殺しているんだから、よほど野蛮な人種だ」

と博士に言うのです。博士は答えられませんでした。

別のアフリカ人は言いました。「宣教師の先生は、人はみな愛しあわなくてはならないと言いました。それなのに、なんで殺し合うのですか。キリスト教の教えはちがってるんですかね」

シュバイツァー博士は、これに対してあいまいな返事しかできませんでした。

戦争が始まって2年目の1915年9月、シュバイツァー博士は蒸気船に乗って、オゴウエ川をさかのぼっていました。

奥地にいる宣教師の夫人が重体になったので往診に行くところでした。

ながい船旅でした。

その間中、博士はしきりと考え込んでいました。戦争のこと、死んでいく人々のこと、生命。

-----自分はいま、こうしてアフリカにいて、黒人たちの生命をすくうために働いている。しかし、自分にとってもっと大切な人々が、次々死んでいく。これはいったいどうしたことか。

-----戦争によって、人類が築きあげてきた文化が、財産が、どんどん壊されていってしまう。

-----戦争のむごたらしさ、無意味さ。人類をなんとかして、目覚めさせることはできないものだろうか。

かつて、イエス・キリストが、正義と愛を説いて人類を救おうとしたように、現代の人間をすくう手だてはないだろうか。イエス・キリストになれるかもしれないと思うシュバイツァー博士は、人類にむかって教えさとす言葉を探していたのです。

1915年、奥地にいる宣教師の夫人の往診に向かう蒸気船の上で、シュバイツァー博士は考え込んでいました。

宗教と倫理の間(21)番外16

○○寺支部 獅子風蓮

シュバイツァー博士(つづき)

戦争のむごたらしさから人類を救う手だてはないものか、現代のイエス・キリストになりたいと思っていた博士は、人類にむかって教えさとす言葉を見つけようとしていたのです。

博士は川岸をぼんやりながめていました。

……あの無知な黒人でさえ、戦争で殺し合いをしているヨーロッパ人を、キリストの教えに反していると言って、食ってかかる。私はそれに答えられなかった。

ヨーロッパでは、いまこの時でも、数多くの命が失われています。そんな時、シュバイツァー博士はアフリカで、わずかな人数の命を救おうと懸命になっているのです。それも、博士の考えによれば、「人間として白人よりも劣っている黒人」を、です。

……私はいったい何をやっているのだろうか。私が生かさなくてはならぬ人間は、今戦争で死んでいっている、われわれの友人たちではなかろうか。

博士の考えは、あくまで白人中心主義だったのです。

博士は今、白人の宣教師夫人の治療に行くところです。博士は、病気で動けない白人がいれば、たとえそれが行くのに二、三日かかるような所でも、往診します。

そしてその間、入院患者は放っておかれます。

しかし、アフリカ人の往診をすることはありませんでした。

このような博士でしたから、戦争で白人がばたばた死んでいく時に、アフリカ人の治療をするのが無意味に思えたのでしょう。

さてその時、船のそばでカバが頭を出しました。何頭もいるカバが、ぶふーっと息を吹き上げ、また水の中へ戻っていきます。

博士はふと思いました。

「そうだ。私たちはみんな、生きようとしている〈生命〉だ。人間も動物も虫たち、木や草まで、みんなが生命をもっている。私たちは、お互いに〈生命〉を大事にしなくてはいけないんだ!」

博士はこの《生命の畏敬》という考えを「発見」して、興奮しました。現代のイエス・キリスト、シュバイツァー博士は、この「発見」によって、イエスを乗り越えることができるのではないかと思ったのです。

《生命の畏敬》この考えは、シュバイツァー博士の生涯をつらぬいた思想となりました。

第二次世界大戦が終わったころから、博士は核戦争の反対運動に力を注ぎます。

「全人類の破滅をもたらす核戦争は、これまでに人間が考えだしたことの中で、最も恐ろしいものである」

アフリカから発せられた博士の言葉は、全世界の人々の心を動かし、1954年、博士にノーベル平和賞が贈られました。

シュバイツァー博士はおそらく純粋な気持ちで世界平和を訴えたのでしょう。この訴えを間違っているというのではないのですが、博士の《生命の畏敬》の中には納得できない部分があると、この本『アフリカのシュバイツァー』の著者、寺村輝夫さんは言います。

前後しますが、第一次世界大戦の時期に、博士は、捕虜として捕らえられフランスに送り返されました。

その戦争が終わってのち、博士は再び、アフリカへ戻りました。このたびのアフリカ行きには、博士の《生命の畏敬》に共鳴する、ヨーロッパ人やアメリカ人の支援がありました。そしてシュバイツァー博士には夢がありました。

宣教師本部に借りているこれまでの狭い土地ではがまんできず、もっと広い土地で《自分だけの王国》を築きたいと思ったのです。

博士は適当な土地を見つけ、植民地政府にかけあって、これを手に入れました。

もともとアフリカ人のものであり、白人によって追い出された空き地。それが、白人の〈夢〉をはたすために、使われるようになったのです。

博士は、ヨーロッパから手伝いに来ていた二人の白人医師と、何人かの白人看護婦を前に、興奮して話しました。

「二百人の患者と、その家族たちが住める病舎を作るのだ。あまったところは、畑にする。家族たちの食料は、ここでまかなえるだろう。畑作りは、家族たちにやらせればいい。畑だけじゃない。病院を彩る花も植えさせよう。果物が年中なっている木も植えさせよう。ここはアフリカ人の天国になるはずだ!」

一般には、シュバイツァー病院は患者や家族にとって天国のようだったと信じられています。

しかし寺村さんは、シュバイツァー博士のこの計画を「シュバイツァー植民地」と呼んでいます。

エジプトのピラミッドが無数の奴隷をこき使うことによってできあがったと同じように、シュバイツァー病院の建設には、「シュバイツァー植民地」の黒人が使われたと言うのです。

病院を広げ果樹園を作り畑をこしらえるために、患者やその家族がかり出されました。ただ同様で入院させてもらっているのですから、当然といえば当然です。が、シュバイツァー博士が一人で考えた「植民地」の青写真どおりに働かされる人々の気持ちはどうだったでしょうか。

働いてできあがるのは自分たちの村ではないのです。まして「天国」ではありません。実際には、この「天国」作りのために、シュバイツァー博士は黒人の助手を監視人として付けなくてはなりませんでした。あるときは前に書いた、インテリ黒人オリアンゲのように、むちで打って働かせたこともあったでしょう。

シュバイツァー博士は、黒人が働かないために病院建設が手間どることを嘆きましたが、1927年、ついに病院は完成しました。

シュバイツァー博士のとなえる《生命の畏敬》という考えは、病院の中に反映されました。

シュバイツァー病院は、家族ぐるみで入院するしくみになっています。しかも、その家族の中にはヤギまでがいます。ヤギはウシと違ってツェツェバエが運んでくる熱病に強いため、アフリカでは貴重なのです。ヤギは、入院患者はもちろん家族の中の赤ん坊のために、乳を出してくれます。

病院の中をヤギが歩き回っている……。そんな病院は、世界中でここだけだったでしょう。

博士の部屋の前に、まるで番人のようにペリカンがいます。ベランダには夫婦のサルが陣どっています。ロメオとジュリエットと名付けられたサルは、博士のまたとないペットでした。テクラと呼ばれたモリイノシシは、夜になると、三匹のイヌと三匹のネコを従えて、戸口を守りながら眠ります。

そのほかにも、ゴリラ、フクロウ、チンパンジー。まるで動物園のように、博士のまわりを動物たちが取り囲んでいました。

人々はこの様子を、「動物を愛する、博士の尊い愛の心」と言います。

確かにそうには違いないのですが、動物の中には、「シュバイツァー植民地」を荒らすゾウが入っていません。ヒョウなどのいわゆる猛獣はいないのです。

これらは、博士に害をもたらす〈敵〉です。敵は飼うことができないのです。

シュバイツァー博士の《生命の畏敬》という考え方には、こうした矛盾がありました。博士もそのことに気が付いて、病気を起こすばい菌や畑の作物を荒らすゾウなど、「やむをえない場合には殺すことが許される」というのです。

博士の《生命の畏敬》がペットを愛することにとどまっているうちはいいのですが、しだいに奇妙なものに発展していきます。

これはどんな伝記書にもある有名な話ですが、博士が病院のスッタフや客と食事をしているとき、客の顔にアリがはい上がってきます。客が何気なしにアリをつかまえつぶそうとすると、博士はさっと立ち上がって、

「そのアリを、よこしなさい」

と言いました。アリをやさしくつまんで、外に出してやると言うのです。

また、病院を建てるとき、柱を建てる所にアリの巣があったため、アリがすべて移動するまで工事が中止になることがありました。「働かない、怠け者!」

と博士にどなられるアフリカ人は、この工事中止をどうながめていたでしょうか。

病院建築の土台の上に乗る木材には防腐剤を塗ったり化学薬品を使うことは許されませんでした。そういう薬品は、土を汚し虫を殺すからだというわけです。

病院のトイレの便器の下には溝が掘ってあって、その中ではニワトリが走り、ハエがうなっていたといいます。こうなると、アフリカ人の便所より、まだ不潔です。



宗教と倫理の間(22)番外17

○○寺支部 獅子風蓮

シュバイツァー病院

前回はシュバイツァー博士が、《生命の畏敬》という考えにたどり着いたこと、しかしその思想の中には納得できない部分があること、などを書きました。

寺村さんのいう「シュバイツァー植民地」の中心である病院は、他のアフリカの病院と比較しても、とびぬけて非衛生的なものでした。

博士は、黒人の患者には体温計すら使わなかったといいます。長い経験で、一目見れば体の具合が分かるまでになっていたのでしょう。ものすごい自信家です。博士はまた、

「便器や体温計などは、原始的な人間にはいらない。原始的な人間を治療するには、なるべく原始的なやり方がいいのだ。もし、ヨーロッパやアメリカの病院にあるような新しい治療器械をランバレネに持ちこんだら、黒人たちは、それを見ただけでショックを起こしこの病院に近寄らないだろう」と言ってのけるのです。

かなりな自信家で、自らをキリストと思いこむシュバイツァー博士は、人の意見に耳を傾けることがきらいでした。なにもかも自分の思い通りにしないと気がすまない人でしたから、自分に使えない医療器具や薬品は、たとえ送られてきても使おうとしなかったといいます。

シュバイツァー博士が多大な苦労をかけて作った病院ではありましたが、博士の死後、この病院はどうなったでしょうか。

博士の存命中、ガボンの国立病院がオゴウエ川の対岸に建ち、熱帯病の専門的研究を始めました。「近代的設備の病院など作ったら、黒人はショックを起こして近づかない」とシュバイツァー博士は言いました。しかし、アフリカ人は博士の病院をあっさり捨てました。

博士の病院は、わずかにハンセン氏病の隔離病院としてしか役割を果たさないようになりました。

そして、資金不足を理由に、博士の死後わずか十年で、病院は閉鎖されたのです。

自らをキリストと思いこんだシュバイツァー博士でしたが、本物のキリストとは異なり、博士は死後「復活」することもなく、病院を持続させることすらできませんでした。

日本を省みて

このように、この本の著者・寺村さんは、白人中心主義の抜けきらないシュバイツァー博士の思想と行動を鋭く批判するのですが、最後の「おわりに」の章で、自らの立場を振り返ります。

ヨーロッパの国々がアフリカを食い荒らそうとしはじめたころ、日本もまたアジアの国々に手を出していました。

本のなかで、「奴隷制度はけしからん」「植民地主義は悪いことだ」と言ってはきましたが、著者自身、私たち自身、そのけしからん国の人間であったわけです。

さて、シュバイツァー博士は、「人間はみな兄弟である……」と言いました。しかし、その実、アフリカ人は愚かな弟であり、自分は賢い兄である。弟は兄に従わなくてはならないと、言っています。

一方、軍国主義の日本も、

「アジアの人たちはみな同じ仲間である……」

といって、アジア人は優れた日本人に従うべきであると言いました。

どうやら同じ考え方のようです。「アジア人は同じ仲間」といいながら、日本は台湾や朝鮮の人をどう扱ったでしょうか。同じ日本人として日本語で教育を受けさせながら、戦争が始まると労務者として日本本土へ引っ張ってきて、一番苦しい仕事を、それこそ食うものも食わせず、ムチで打ちながらやらせたのではなかったでしょうか。まるで奴隷です。また一番危険な最前線では、彼らは日本兵の盾にさせられたのです。

その他、中国本土で、東南アジアで、日本人がやったことは、どうしても「同じ仲間」にやったことではありません。

同じ日本人として私たちは、過去の誤りは誤りとして、きちんと反省しなくてはなりません。


白人中心主義

ここまでは、主として寺村輝夫著『アフリカのシュバイツァー』からの引用を私なりにまとめたものですが、この本からいくつかの教訓が得られると思います。以下、私なりにまとめてみました。

その一つ目は、シュバイツァー博士の思想と行動のはしばしに見受けられた「白人中心主義」についてです。

シュバイツァー博士は、主観的には「アフリカの黒人を救うため」に努力したのでしょうが、病気の白人のためには往診するけれども、アフリカ人のために往診することはありませんでした。

「人間はみな兄弟である」けれども、アフリカ人は愚かな弟であり、自分は賢い兄であるとしました。

「白人中心」という点において当時の植民地主義者の考えと大きな違いがあるとは思えません。

その時代のヨーロッパ人やアメリカ人の発想から抜けきれなかったといえばそれまでですが、「偉大な神学者・哲学者」としては、批判を免れないかもしれません。

現代の国際社会の通念では、一応表面的には「いかなる性・人種・民族・思想・宗教によっても人は差別されない」ということになっていますが、今なお西欧人の中には、有色人種への偏見が根強く残っています。最近のアメリカで起きた「ロス暴動」を見てもそのことは確認できます。

アメリカなどでは、同じキリスト教徒でも、黒人の行く教会と白人の行く教会は区別されているようです。

このような人種差別が、イエス・キリストの教えそのものかどうかは議論のあるところでしょうが、キリスト教を精神的な基盤とする西欧において、本音のところで「白人中心主義」が根絶できないのは大きな矛盾といえます。

まして相手が非キリスト教徒の場合、「異教徒」に対する憎悪が表面化することもあります。

ついこの間の湾岸戦争も、「イスラム教徒とキリスト教徒の戦い」という一面があったことも指摘されています。

西欧社会において、白人と有色人種の間には今なお深い深い溝があり、キリスト教徒と異教徒の間にはさらに深い溝があるのです。

「未開の民族」にも独自の文化や生き方があり、お互いにそれらを尊重すべきだという考え方に西欧の知識人がたどり着いたのは、意外に遅かったようです。二十世紀に入り、構造主義の先駆といわれたレヴィ・ストロースなどの文化人類学者・哲学者の出現を待たなければなりませんでした。

もっとも西欧人ばかりでなく、私たち日本人の中にも、残念ながら、白人を黒人・アジア人の上に考える人が少なからずいます。しかし、能力ある人物は黒人やアジア人でも正当に評価されている場合が多いようにも思います。

仏法は言うまでもなく、反差別の思想ですから、その思想を正しく広めていくのが私たちの仕事と言えましょう。