宗教と倫理の間(2)
○○寺支部 獅子風蓮
自分にとって信仰とは、宗教とは、そして創価学会とは一体何なのでしょうか。
病院勤務の仕事の合間に、宗教・哲学関係の本を何冊も読んでいくうちに、いくつかのことに気が付きました。創価学会が起こしたさまざまな反社会的問題の多くは、やはり学会側に非のある場合が多い。しかしその都度軌道修正をしてきて、なんとか乗り切ってきていること。創価学会に対する批判と一口に言っても、さまざまな立場からのものがあり、客観的に批判の内容を分析する必要があること。西洋の知識人の中には、東洋の思想のなかに、西洋思想にないすぐれた思想を見いだしている人が少なからずいること。日本でも、梅原猛氏のように、日本仏教思想のなかに、21世紀の新しい思想の可能性を求めている人のいることなど……。
ここ数年、マスコミによる、創価学会とりわけ池田氏個人に対する批判、中傷記事が氾濫しています。このような記事が数多く出だしたのは、私が創価学会に疑問を感じたのよりも後のことです。現在池田氏に反旗をひるがえしている人々の主張と、私が持っている創価学会に対する批判とは、内容が大きく異なることに気が付きました。
池田氏のカリスマ性は、私を含め多くの人たちに「誤解」を与えました。数えきれない種類のマスコミが、これでもかこれでもかというように、氏の人格に対する侮辱的な情報を流します。
これまで抱いていた池田氏のイメージとマスコミによって与えられたイメージと、一体どちらが本当なのか。私は、わからなくなってしまいました。その解答を求めて、私は、これまでまじめに読んでこなかった池田氏の著書を片っ端から読みました。『人間革命』、『二十一世紀への対話』といった代表的な著作を読むことによって、池田大作という人物が本物なのか偽物なのか、判断できるかもしれないと考えたのです。
たしかに、トインビー博士との対談『二十一世紀への対話』は、人類へのアドバイスに富んだ良書であると思いました。『人間革命』も、たいへん興味深く読ませていただきました。
しかし、創価学会関係の文献をいろいろ集め、研究を進めていくと、これらの著作のほとんどは池田氏が直接書いたものではなく、代作の疑いが強いということがわかりました。
『人間革命』の代作者は篠原善太郎氏であるということは、公然の秘密のようです。連載が11巻の半ばで、10年以上も中断されていたのは、篠原氏が高齢のためだと噂されていました。現在11巻の連載が再開されていますが、別のゴーストライターが見つかったのでしょうか。
また、池田氏がこれまで自分の勲章のように自慢してきた、トインビー博士との対話も、実は池田氏自身は全くタッチしていないのと同じだということです。池田氏は昭和47年にトインビー博士とたしかに対面はしたのだが、そこで出た話はほんのあいさつ程度。ところが池田氏としては、とにかく実際に会ったという事実をなんとか利用したいと考え、桐村泰次氏に「対談集を作れ」と命じたといいます。しかし、トインビー博士と池田氏との間には、つっこんだ対話など実際には行なわれてはいない。そこで桐村氏は、長文の書簡をトインビー氏との間で交わし、それを対談形式にまとめあげたのだそうです。
私自身『二十一世紀への対話』を読んで感動したこともあったので、これが代作と知らされ、少なからずショックでした。
また、池田氏が学会の会合で行なうスピーチの内容などは、のちに聖教新聞に掲載される記事とずいぶん異なるものだということです。このことは、池田氏のスピーチを聞いたことのある人なら事実として知っていたことではあります。ところが最近の、学会と宗門のトラブルのきっかけとして、平成2年11月16日の池田名誉会長のスピーチがクローズアップされ、池田氏の生のスピーチはずいぶん品のないものだと、一般に知られるところとなってしまいました。
池田氏が日常的にゴーストライターを利用しているという動かしがたい証拠も、氏が証人として出廷した「山崎裁判」の裁判記録に認められます。
このころになると私は、創価学会の問題に徹底してこだわることに決めていたので、創価学会に関係した情報にはしつこく食らいつきました。
平成2年4月22日の聖教新聞によれば、米国の大学準教授ダニエル・メトロ博士が学会本部を訪れ、秋谷会長と会談したという。ここでは、博士の近著「人間と平和の大河-----創価学会の歴史と理念」をめぐって話が進み、秋谷会長は「『立正安国』の理念から今日の学会の運動に至るまで、正しい認識を与えてくれる貴重な研究です」と評価したということです。
私はさっそく本屋でその本を買いました。その本は「泰流社」という聞いたこともないような出版社から発行されていました。訳者は遠藤靖夫となっていましたが、奇妙なことに、訳者の肩書きも略歴も書かれていませんでした。
私は、ピンとくるものがあって、この本の原書を米国から取り寄せ、訳文と突き合わせてみました。
メトロ博士が「日本語版への序文」に「今回、日本語版の発刊にあたって、資料的に古くなった個所を新しい資料と差し替えたり、日本人の読者を考慮し、読みやすくするなど、若干、加筆・訂正させていただいた」と言っているように、納得できる範囲の修正は許せます。しかし、意図的に、創価学会側に都合よく修正・削除が行なわれている個所も少なくありませんでした。
結局これは、「泰流社」という出版社をダミーとし、創価学会自身が行なった、創価学会に都合よく修正した翻訳作業である可能性が高いと思われました。
ついでにもうひとつ言わせてください。池田氏が昭和62年に3回にわたって「東洋学術研究」という雑誌に「特別寄稿」した『脳死問題に関する一考察』という論文についてです。
前に述べたように私自身、脳死の問題に関心を持っていました。
昭和63年ころ友人から池田氏が脳死に関する論文を発表したときいて、ぜひ読んでみたいと思っていましたが、一般の書店や図書館では「東洋学術研究」を置いていないため、なかなか読めないでいました。
その後、たまたま知り合いの看護婦さんで学会員の人がいて、この論文のコピーを貸してもらうことができました。
論文はまず、「医学論としての脳死」を解説図入りで詳細かつ正確にまとめ、その問題点を整理しています。ついで「仏教、特に日蓮大聖人の仏法における臨終・死の在り方」を論じ、「仏教の視座に浮かび上がる脳死」への一考察に移っていきます。科学者の書くように、体系的で論理的な、りっぱな「学術論文」です。
内容的にも、重要な示唆を含むすばらしい論文でした。しかし、生意気な言い方になりますが、池田氏がこんな論文を書けるはずがないと、私は一読して思いました。
というのは、医師である私がこの文章を読んで、明らかに医師にしか書けないと思われる文章表現が、いたるところに認められたからです。
「医学としての脳死」に関する部分は、ほぼ百パーセント、代作でしょう。その他の部分について、池田氏の主張らしいものも認められますが、おそらくかなりの部分は代作と推定されます。ゴーストライターは、創価学会ドクター部あるいは学術部のメンバーといったところでしょうか。
この論文は、「脳死」を「個体死」と認めるかどうかの結論は示さず、完成された主張というわけではありませんが、内容的に優れたものを含むことは確かです。それだからこそなおさら、著作者に疑惑が生じた点が悔やまれてなりません。
戸田二代会長の亡き後、創価学会をここまで発展させてきたのは、池田氏の功績に違いありません。氏のたぐいまれな才能と優れた統率力は、多くの人の認めるところです。
しかし、ゴーストライターの問題あるいは、創価学会の行なう情報操作の数々を知るにつけ、この「ウソつき体質」は、池田氏自身にその責任の多くがあると言わざるを得ません。
今回の宗門とのトラブルにおける、創価学会側の、聖教新聞などを使った連日のすさまじい宗門攻撃キャンペーンをみても、きわめて巧妙に情報の操作が行なわれていることがわかります。
一般会員の多くは、宗門と学会のトラブルが表面化したとき、驚くとともに、一日も早く両者のトップが歩み寄って仲直りすることを願ったはずです。平成3年の正月元旦までは、多くの会員は、「僧侶の堕落」を問題にしたり怒っていたりしてはいなかったのですから。しかし期待に反して両者のトラブルは解決するどころか、エスカレートするばかりです。創価学会は、組織および「識者」と称する学会シンパを総動員して、一般会員の中に生じる不安や不満をうまくそらし、「堕落した宗門」という必要以上に現実を超えたイメージを「善良な」会員の頭に植え付けようとしました。この件に関しては、後にまた詳しく話したいと思うのですが、とにかく、私のように学会から距離を置いて学会をながめる人間には、さももっともらしい学会の主張、「民主主義」だとか「時代を先取り」だとかいう耳ざわりのよい言葉を散りばめた学会の主張が、むなしく響くのです。なぜかといえば、創価学会は「ウソつき」で、しかも「ウソ」のつき方が巧妙だからです。
聖教新聞は、宗門の意見をまともに掲載せず、自分たちの主張を一方的に述べる傾向があります。宗門の機関誌である「大日蓮」や法華講連合会の機関紙「大白法」を読むと、学会・宗門の主張が、あたかも往復書簡のように双方とも公平に載っていることが分かります。少なくとも、宗門の方が「正直さ」・「誠実さ」という点では上であると、私は判断しました。
私は個人的には、創価学会は日蓮正宗から離れるべきではないと思っています。そのためにはまず、創価学会の池田大作名誉会長が宗門に謝って、その後、学会も宗門も建設的な議論を行ない、必要ならばお互いに膿を出しあいながら、真の「僧俗和合」をめざすべきでしょう。しかし残念ながら、現時点では学会も宗門もお互いに批判しあうばかりで、問題解決の糸口さえ見つかりません。
ただ、批判の内容を見ると、宗門は学会幹部の個人攻撃やスキャンダル暴露などは行なっていませんが、それに対して学会側は、その情報網をフルに活かして、御僧侶個人個人の生活や言動を調べあげ、少しでも問題があると、徹底的にスキャンダルに仕立てあげる作戦をとりました。聖教新聞に、正宗僧侶を個人攻撃する記事が載るようになったあたりから、私は創価学会に見切りを付けました。
創価学会はこれまで、マスコミによる池田大作名誉会長の「ありもしないスキャンダル」記事に怒り、悲しんできたはずです。御僧侶個人にたとえ非難すべき点があったとしても、それを実名でスキャンダル記事にしたてあげ「宗門攻撃キャンペーン」に利用するなどということは決してすべきではありませんでした。
池田大作名誉会長をはじめとする創価学会幹部、公明党幹部、学会本部職員の皆さんは「僧侶の堕落」を口にできるほど、人格者ぞろいなのでしょうか。他人を批判する前に、社会的に大きな批判を浴びた、数多くの問題の責任を明らかにし、誠実に謝罪すべきは謝罪し、問題の再発を防ぐための内部改革を行なうべきではないでしょうか。
まず最初にやるべきことは、創価学会の芯からすみまでしみ込んだ「ウソつき体質」「謀略体質」を反省し、正直な議論のできる組織にすることではないでしょうか。創価学会にあっては「倫理」は重要視されていないようですが、もっと宗教者らしく倫理的であるべきだと思うのです。そもそも、創価学会における「宗教」と「倫理」の関係は一体どうなっているのでしょうか。その点までさかのぼって、議論する必要がありそうです。
今年の夏、証券会社が多くの大企業などに株の損失補填をしていたことが分かりました。そのリストに創価学会の名前があったのはみなさんご存じのこととおもいます。
実際に損失補填があったかどうかは、創価学会側が否定しているため、断定できません。しかし少なくとも、創価学会は一般会員から集めた尊い浄財を、リスクの高い株式に投資していたことは事実です。このことは、聖教新聞(8月1日)に載った秋谷会長の談話を読んでも明らかです。
金庫置き忘れ事件にしろ、ルノワール絵画疑惑にしろ、庶民の金銭感覚からはかけ離れた億単位の金銭スキャンダルに、多くの創価学会員は、割り切れない思いを持っていることと思います。
事件のたびに、テレビで学会の記者会見が行なわれたり、新聞に学会の談話が載ったりしますが、宗教者らしい潔い反省や謝罪を見聞したことはありません。事前に弁護士と入念な打ち合せをしたことが分かるような、責任のがれの醜い姿だけです。汚職の発覚した保守政党の政治家の記者会見と何ら変わる所がありません。
私にとって不思議でならないのは、創価学会内部から内部改革をめざす青年がまったく立ち上がらないことです。
もはや創価学会は自浄作用を失っているのかもしれません。
かつて創価学会の「体制内改革」をめざして運動を起こそうとし、結局は挫折してしまった私ですが、信仰の重要性を悟るにつけ、創価学会の体質をなんとか改善できないものかと思ったこともありました。
創価学会の組織内で賛同者を広げていくのが正道なのでしょうが、会内で発言権を強めるのには、ある程度の幹部になる必要があります。幹部になるためには、折伏や新聞啓蒙などの実績をあげ、組織内で危険人物と見られないように自分を制御することも大事です。しかし創価学会の組織に疑問を感じているのに、自分の気持ちを偽ってまで幹部にはい上がることは、自分にはできません。
一方、学会の体制内改革をめざしたグループもかつてありました。藤原親子、大橋、押木、福島といった人たちです。しかし、マスコミに乗って一方的に自分たちの怨念をぶつけるやり方は、品のあるやり方とは思えません。思想的にも「改革派」の主張が、池田氏の思想よりも高いとは思えません。藤原親子にいたっては、その暴力的体質が明らかになっており、彼らにはもはや大組織のリーダーたる素質はないといえるでしょう。
「怨念」や「権力志向」からではなく、自発的で真面目な問題意識から出発した「草の根運動」ともいうべき改革が起こるのが望ましいのですが、何の組織ももたず人望もない私には、なかなか「運動」を組織することなどできそうにありません。
(つづく)