宗教と倫理の間(12)番外7

○○寺支部 獅子風蓮

医師の資格

創価学会の狂ったような反宗門キャンペーンは今に始まったことではありませんが、最近では、さらに日顕上人猊下に対する誹謗が激しくなってきております。

おそらく、学会員の動揺を防ぐため、宗門のイメージダウンをはかって、あることないことひっくるめたキャンペーンを、日顕上人猊下に集中させたためだと思われます。

キャンペーンの内容は、とるにたらない低レベルのゴシップですから無視すれば良いのですが、いかがわしい「宗教紙の記事」や信用のおけない「証言」をもとに論理を組み立て、日顕上人猊下の人格を侮辱し、決め付けるやり方には憤りを感じます。

つい最近の聖教新聞には、「法主日顕その異常性を診る 精神科医高山直子さんに聞く」(平成4年8月)として、一人の精神科医がコメントを寄せています。

本来、精神科に限らず臨床医は、患者もしくは依頼者の求めに応じた契約関係のなかで、患者もしくは依頼者のプライバシーを厳守しながら、診断・治療を行うものです。

とりわけ精神科は、依頼者のプライバシーに深く立ち入ることが多いので、依頼者の権利には十分な配慮が必要とされる分野です。

それなのにこのような形で、精神科医が依頼者でもない個人(日顕上人猊下)の心理分析を、不確かな伝聞をもとに、直接面接することもなく行うことが許されるでしょうか。

新聞記事の見出しを見るだけでも、「数々の言動に未熟さ露呈」「“経験”が生きない超幼児人間」「心の“オムツ”とれない七十歳の法主」「日顕の狂気に“生い立ち”の影」「底知れぬ『未生怨』の世界」など、独断的な言葉が飛び込んできます。

いったい高山氏は、一人の人間を「狂気」と決め付けるにさいし、どのような資格と立場でこのような「診断」を行ったのでしょうか。

医者と依頼者の間の契約関係が成立していないことから考えて、臨床医としてこのような発言をすることはありえません。かりに日顕上人猊下が依頼者であったとしても、医師の守秘義務違反として医師法に抵触する行為です。

次に、専門性を有する評論家として、このような論評をしたとすれば、「精神科医」という専門性の看板のもと、一般の人々に与える影響は強いものがあるのですから、その責任は重いといえます。創価学会側の情報のみに基づいて、創価学会に都合のよい「心理分析」を行うならば、その「専門性」が一方的なキャンペーンに利用されることとなります。このような場合、「精神科医」という看板を故意に使用することは、犯罪的な行為ともいえるでしょう。

それはともかくとしまして、前回にお約束したように、今回は藤原行正氏の問題点について検討したいと思います。


検証、藤原軍団

藤原行正氏は、もともとは池田氏の側近中の側近として、創価学会および公明党の中枢にいた人物です。

藤原氏は党の都議団幹事長をつとめ、いわば首都における「公明党の顔」でした。

しかし、昭和61年に公明党中央執行委員を解任され、昭和63年6月には同党の大橋敏雄代議士(当時)が「池田大作への宣戦布告」という手記を「文芸春秋」に発表すると同時に、公然と「池田打倒」を表明していました。

当初、「藤原軍団」の破壊力は、侮れないものがあると思われました。

範昭氏が月刊誌上で「特別手記」を発表したり、「池田問題対策事務所」事務局長の押木二郎氏が、週刊誌に何回となく登場したりしました。

しかし、平成元年ころにはすでに、大橋氏と藤原氏の間には不信感が芽生えていたそうです。

後に、「週刊宝石」のインタビューに大橋氏が答えたところによりますと、平成元年7月16日に、中野サンプラザにて反池田グループの総会が開かれたということです。

その席で、大橋氏は藤原行正氏から、

「君は『一年以内に大作を倒す』と宣言した。しかし大作はますます強くなったじゃないか。君はもういいよ」と言われ、藤原範昭氏からは、

「5月10日を過ぎたということは、(あなたが)負けを認めるべきですね」とまで言われ、大橋氏はこれを聞いて「なにかしら急に力が抜けていった」のだというのです。

当時の反池田グループの中で、藤原範昭氏は大きな存在だったらしく、「打倒池田」を果たしたあかつきには、範昭氏をリーダーに立てようとしていたようです。

しかし、大橋氏の息子の賢治郎氏(大橋氏の元秘書)は最初から範昭氏をクールにとらえていて、大橋氏が範昭氏をリーダー視することに対し批判的だったようです。

そんなことから、藤原氏が大橋氏に「(賢治郎は)われわれの間では最大の魔だよ、彼を切ってくれないか」と迫り、大橋氏のなかにはじめて疑問が起こったのです。

「ちょっとでも意にそぐわないとグループから切る、これは池田大作がやっていることと同じじゃないか」と。

大橋敏雄氏は愚直なまでに正直と定評のある人で、彼が書いた『吹けば飛ぶ男の奮戦記』(平成2年、人間の科学社)を読んでも、その飾り気のない性格がうかがえます。元八百屋であり、元うどん屋である彼が、池田氏のツルの一声で政治家になり、やがて池田氏に疑問を抱いていく過程が、包みかくさずに告白されています。

彼の立場はあくまで「反池田」ですので、池田氏に対しては、おおむね批判的に書いています。

しかし、変な作意のない彼の文章を読んでいて、意外な発見もありました。

昭和31年、創価学会がはじめて挑戦した参議院選挙で、大橋氏は九州の幹部として、九州に割り当てられた候補の応援で、選挙違反を犯し逮捕されました。

そのため会社(西日本相互銀行)をくびとなり、「折伏闘争をすれば、宿命が転換されて良くなるだろうと考え」、山口県で行われていた折伏闘争に参加しました。

その折伏闘争の中心者だった池田大作氏は、大橋氏との面接で、次のような言葉をかわしました。

「九州の竹中半兵衛だな」と池田氏。

「ありがとうございます」と大橋氏。

「今、仕事は何をしているんだ」

これに対して大橋氏は、

「はあ、今は失業中でございます」と、ことの成り行きを説明しました。選挙のために銀行をくびになったけれども、学会ではこういった場合「法難」とされていましたので、いささか自慢げに答えました。

すると池田氏は、

「君の信心は、天ぷらだな」と言い捨てました。天ぷら学生という言葉がありますから、「衣ばかりでごまかしている」という意味でしょう。さらに池田氏は、

「信心というものはな、生活に現われるものだ。法難で失業したのなら、すぐに仕事が出てくるのが本当の信仰だ。君はもう、ここで折伏活動する必要はない。帰りたまえ。三日のうちに仕事がみつかったら、君の信心を認めよう」と言ったというのです。

このようなエピソードからは、会長就任前、参謀室長時代の池田氏が他の幹部よりも「常識的」で(他の幹部があまりにも狂信的だったという気もしますが)、的確な指導をしていたことがわかります。

一方、藤原氏については、全体としては好意的に書かれているのですが、「青年部の猛者中の猛者」として、その強引さ、目的のためには手段を選ばないいかがわしさも垣間見ることができます。

昭和42年、初めて福岡二区から出馬したとき大橋氏の選挙をつきっきりで 指導したのが、当時の公明党の大物、藤原行正氏でした。

「藤原氏の行動力のすさまじさは、定評がありました。この人にかなう闘士はいない、これほど指導力のある人はいない」といわれていました。

貧相な体では票がとれない。そこで藤原氏は、大橋氏に「太れ」と命じました。

「太る薬」を飲んだりして、ついに大橋氏は最高点で当選しました。

最初は、藤原氏も付き合ってこの薬を飲んでいたのですが、途中で突然やめてしまいました。選挙が終わったあと、

「この薬はな、急にやめたらいかんぞ。急にやめると、コロッといくかもしれない」と藤原氏は言いました。

この妙薬、実は副腎皮質ホルモンのステロイド剤だったそうです。ステロイド剤といえば、いろいろの副作用がある薬で医師以外が安易に使用できる薬ではないはずですが、藤原氏は途中でこのことを知って、これは大変とばかりやめたのでしょう。

しかし、大橋氏には当選するまで飲み続けさせたわけです。

目的のためには手段を選ばずとはいえ、他人の生命・健康に関する無関心、冷酷ささえ感じます。

それに先立つ昭和40年の参議院選挙に大橋氏が立候補した際も、藤原氏が副司令として、病気の大橋氏を指導したことが書かれています。

「なに、具合が悪い!そうか、それならいっそのこと死んでくれ。きみみたいな中途半端な人間が候補者だと勝てない。我々は東京に帰ることもできない。死んでくれ。それでなければ、御本尊様に、祈って祈って祈り抜け!」

大橋氏は、たまらない痛さの中で唱題し続けたそうです。しかしどうにもたまらず医者を呼んでもらい注射を打ってもらったりして少し良くなりました。

その後、医者に行く旨、九州本部に電話を入れたところ、電話口に出た藤原氏は、

「そうか。治ったという確認のためになら、行ってもいい。これから診てもらうのだったら、行く必要はない!」

これに対して、大橋氏は、

「なんと冷たい人だろう。信心とはこんなに厳しいものなのか」と思ったそうです。

「反池田」で、藤原氏とは同志の関係にあった大橋氏の、正直な記録だからこそ、信頼がおけると私は思います。

当時の創価学会の幹部にはみな、多かれ少なかれこのように強引で「狂信的」なところがあったのでしょう、藤原氏だけが特別だというわけではないかもしれません。しかし、藤原氏の著書には、そこらへんの反省というか自己批判が足りないような気がします。藤原氏は、池田氏の全てを批判できるほどに立派な人格を持ち合わせていたでしょうか。

大橋氏はまた、自分が総責任者として関わった選挙違反の事後対策の様子を告白しています。


昭和34年の北九州市議選で、私は浅井庫衛候補の総責任者を努めました。

ところが、替え玉投票の問題が起こり、運動員が捕まるという大騒ぎになりました。すぐに警察の調べが入るに違いない。

学会もこれを重視して、こうした問題の処理がうまいとされていた大野潔氏(後に代議士)らと、顧問弁護士を派遣し、泊まり込みで対策に当たりました。

警察の取り調べに対して、捕まった人達はみんなしゃべってしまっているようです。総責任者の私としては気が気ではありません。

どうすれば火を最小限に食い止められるか。私達は大野さんの指示にしたがって、取り調べに対する綿密なリハーサルを行いました。

たとえば、ある座談会の出席者の一人が捕まったとします。その人の口から、イモズル式に出席者の名前が明らかになるに違いない。そこで、警察の動きを推測しながら、呼び出しを受けるであろう人達に、「ここまではしゃべってもいい」「ここからは絶対にしゃべるな」とレクチャーしておくのです。

事態は、まさに私達の推測どおりに進みました。一歩先を読んで動いた私達は、騒動を最小限度に押さえられたのです。

この間、私は一時たりとも神経が休まることがありません。いつ、総責任者たる私のもとに、追及の手が伸びてくるか。こんな恐ろしい思いをした事は初めてです。犯罪を犯した人の気持ちは、きっとこんなものなのでしょう。


こういったことは、九州だけの問題ではありませんでした。

43年の参議院選挙では、「十万通の投票入場券が消えた」と報道されたり、大がかりな集団替え玉投票事件があったそうです。

池田氏が選挙違反で逮捕されたのが昭和32年のことですから、その時の反省が、その後の選挙にまったく生かされていないことがわかります。

逆に言えば、池田氏を含めた当時の創価学会・公明党の幹部にとって、選挙違反はまさしく「確信犯」であったことがわかります。

選挙違反は明らかな犯罪行為です。しかし「これは広宣流布のための闘いだ。一票でも多くの票をとることが仏法に沿うことになる。そのための違法行為は許される」と、彼らは考えたわけです。

当時の創価学会では、選挙で有罪となることは「法難」とされて、むしろ名誉なこととされていました。個々の運動員レベルではなく、学会が組織として違法行為を容認していたわけで、そこに重大な問題があります。

いろいろ問題のある藤原氏の著書ですが、「大阪事件」は池田氏が最高責任者として選挙違反を指示したというところは、どうも真実に近いようです。

「人間革命」に書いてあるように「大阪事件」に関する池田氏の無実が事実であるとするならば、その後の選挙において、組織ぐるみの選挙違反が起こらないように対策が立てられていたはずです。池田氏は、参謀室長もしくは第三代会長として責任ある立場にあったのですから、池田氏の責任は重大です。


それはともかくとして、藤原軍団の問題に戻ります。

平成元年「現代」12月号に、藤原範昭氏は「私の前で二度震えた池田大作」という手記を発表しました。

その中で範昭氏は、「反池田、親創価学会」の立場から、全ての間違いの責任は池田氏にあるとして、池田氏さえ倒せば創価学会はよくなると、単純で子供っぽい主張をしています。

しかしその方法としては、具体的にあるわけではなく、「私も池田へのテロ行為を考えた一時期がある」と述べたりしており、はからずも自分の暴力体質を告白しています。

平成2年3月、「週刊宝石」が、衝撃的なスクープを連載しました。

昭和63年秋、当時現職の都議だった藤原氏は、暴力団幹部の水城健雄氏に対し、池田氏の暗殺を依頼していたというのである。

着手金二億五千万円の工面ができず、途中で藤原氏の決心にぐらつきが生じ、依頼は実行されませんでしたが、その後始末に不満を持った水城氏が隠し取ったテープを証拠にしておいたために、計画が暴露されてしまったわけです。

藤原氏は、「週刊宝石」の取材申し込みに対して沈黙を守り続けたといいます。

藤原軍団の一人、「池田問題対策事務所」事務局長の押木二郎氏は、これまで反池田問題では積極的に取材に応じていたのですが、この時の電話取材に対しては、

「そういう男は知りませんし、その件については取材に応じられません!」と、神経質に対応するのみだったといいます。

大橋敏雄氏は、取材に対し、「藤原さんのやっていることは結局、権力闘争だったんです。目的のためには手段を選ばずというやり方も、私の考え方とは違っていました」と述べ、藤原氏の行ったとされる暗殺依頼に関しても、「たとえ(憎い相手を)打ち殺したいという気持ちはあっても実行してはならない。それは戸田城聖先生の教えでもあります。信心の基本に戻らなくてはいけないと思うんです」と、批判しています。

このように、暴力体質をあばかれ、きちんとした反論もできない藤原行正氏とその一族に、池田打倒を叫ぶ資格はなく、日蓮正宗の問題に口をはさむのもふさわしくないと、私は考えます。

そういったわけで、平成3年1月、前年の「11・16スピーチ」に端を発した、創価学会との問題が表面化した際、藤原行正氏やその子分の押木二郎(「池田問題対策事務所」事務局長)の名前が、宗門と関係して出てきたことについて、私は違和感を覚えました。

当時の聖教新聞に載った杉並の会員からの投書には、1月13日藤原氏が末寺のお講に参加し、「住職に加担するかのごとく、質問を封じようとした」といいます。

また学会側の文書によれば、平成2年12月25日、日顕上人猊下は高橋公純師、その実弟で反創価学会ジャーナリストの段勲氏、押木二郎氏それともう一人の合計4名に、本山でお会いになったということです。

「地湧からの通信」第一巻によれば、日顕上人猊下は、1月10日の教師指導会で、このお目通りそのものは否定しませんでしたが、最初は高橋公純師のみと思われていたと説明されました。他の3人は勝手についてきたというわけです。

怪文書「地湧」の言うことですから、全てを鵜のみにする事はできませんが、もし書いてあることが事実なら、暴力団の幹部に殺人の依頼をするような人物の関係者を日顕上人猊下の前に連れ出した高橋公純師と、それを許した宗務院、内事部の責任は思いと思います。

 

さて、このたび私は福島県の白山寺に取材をしてきました。

次回は、その報告をしたいと思います。白山寺といえば、日顕上人猊下の親戚の墓地があるということで、創価学会が鬼の首を取ったかのように批判していた問題の寺です。

「『共同墓地』でないこと、『区画』のないことは、白山寺(福島県福島市荒井字寺屋敷)に行けば、すぐにわかる」などと『地湧』(学会側の怪文書)が挑発するものですから、自分の目で確かめなければ納得できない性格の私は、現地に取材に行きたいと思っていたのです。今回、たまたま近くに行く用事があったので、9月12日、足を少しのばして、白山寺の脇の墓地を見に行ってきました。

「『時局文書』(宗門側の文書)は、デタラメの限りを書いている」と彼らは言いますが、彼らの書く文書にも多くのウソを発見しましたので、次回報告したいと思います。