宗教と倫理の間(6)番外4
○○寺支部 獅子風蓮
『社長会全記録』
前回、『社長会全記録』について書きました。
「社長会」というのは、創価学会外郭企業の社長らで構成されたもので、池田会長(当時)が昭和42年から約5年間、その会合で懇談的に語ったものをまとめたものが、『社長会全記録』です。
創価学会幹部の野崎勲氏は「サンデー毎日」誌に、創価学会サイドの立場から連載記事を書き、その後『創価学会の真実』(昭和58年)としてまとめました。同書のなかで、野崎氏は次のように述べています。
「いわゆる『社長会記録』というのは、その懇親会の出席メンバーの一人が、メモ風につけていたもので、『社長会』の正式な記録などというものではなく、もとより池田会長の言行録などというものではない。内容をみればわかるように、長時間の割には、話がまことに短かったり、メンバーの発言であったものが全部、会長の発言であるかのように記載されたりしている」
野崎氏の言うとおり、この本の内容は公式な発言ではありませんが、全くの捏造でないことは野崎氏も認めているわけです。そこからはむしろ、池田氏の肉声が感じられます。発言者に注意しながら読めば、資料としての価値はきわめて高い、といえます。
この『社長会全記録』は、記録本体と解説(「註」)に分かれていて、記録本体に関して言えば、元の資料に忠実に書かれていると思いました。
第34回の記録中、次のような池田氏の発言があります。
「……原島は一人でしゃべっているだろう。天下を取った様に家の中でしゃべっているよ。威張らしては駄目だよ。本人の為にも、あなたの為にも。……」
「原島」とは元教学部長原島嵩で、「謀略家」山崎正友とともに造反し、『社長会記録』を含む重要機密文書を持ち出した張本人です。正信会・継命新聞と深いつながりを持ってきた人物ですが、『社長会全記録』を発行した継命編集部が、彼に都合の悪いこの部分をあえて削除しなかったことも、この記録の正確さを裏付けます。
また、「社長会はいいな」(第12回)と思わずもらしているように、身内だけの気安さから、この会合では池田氏の本音がいたるところで聞かれます。
「中曽根康弘は心配ない。こちらの小僧だ。総理大臣になりたいと云っていたのでよしよしと云っておいた。ケネディ気取りだ。坊やだ」(第6回)
「千坪や二千坪は何でもない。あげるよ」(第10回)
「一億七千万、よし買おう。そこにある森林を製紙会社に売ると五千万になる」(同)
「六十八万坪に独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな」(同)
「松下幸之助はずるい奴だ。『PHP』五十万部ですごく儲けている」(第12回)
「皆は公私混同、公私混同というが、私は公私混同で全部公だよ。仏法には私はないよ」(第20回)
「ダイヤを持っているか。いないか。なんとかしてやろう」(第30回)
「ナセルが死んだな。いろいろの人が死ぬが、私が生きていればそれでいいよ」(第38回)
「板垣退助は政党を作り、福沢諭吉は学校を作っただけで有名になった。私は全部やった」(第50回)
「今、世の中は個人主義、自由主義になっているが、本当は全体主義は一番理想の形態だ」(第61回)
などなど、まさに言いたい放題です。「人間・池田大作」を研究するのに欠かせない貴重な資料であることは間違いありません。
篠原善太郎氏の待遇
前回、『人間革命』は池田氏ではなく篠原善太郎氏がほとんど代作した疑いが強い、しかし具体的な物的証拠に乏しい、と書きました。
篠原善太郎氏は、社長会の常連メンバーで、次のような池田氏の発言から、篠原氏が特別な待遇を受けていたことが分かります。
「篠原さんを戸田先生もみていた。特に奥さんを知っておられた。あなたも戸田先生に答えて下さい」(第9回)
「篠原さんも木村君も健康になった。夜は早く寝て、永生きしなさい」(第13回)
「篠原さんの一生は闘病の歴史だね。よくなったものだね」(第14回)
「あとは、結婚式場は第五の前に博文会館を作って式場をしよう。四階建て位で、一角に主婦同盟を置いてやる。篠原さん御夫婦の部屋も作って下さい」(第22回)
「篠原さんも元気になってよかった。乾杯しよう。長生きして下さい」(第23回)
「永生きしてもらいたい人は体が弱い。死んだ方が良い奴は仲々死なない。
篠原さんは永生きして下さい」(第26回)
「篠原さんは最高だ。生命を賭してやって来た。どんな事をしても長生きして下さい」(第28回)
「正本堂建立の時、いろいろの美術品をあげよう。篠原さんに印篭をあげよう。印篭は薬入れと同時に印鑑であった。一つ四十八万円だよ」(第30回)
「篠原さんの奥さんの具合はどうか。一遍伊豆にお邪魔したいね。絵を一枚差上げます」(第38回)
「篠原さん、還暦をやったか?人間にとって最後の数年間の人生を仕上げる事が大事だ。六十歳前後で、なんとも云えない本門の人に守られて生きていくのが幸せだ。四十~五十代なんて問題でない。苦労すべきである。篠原さんも私に会って、生命がながらえて本当に良かった」(第39回)
「篠原さん、病気の時は心配したよ。あれが死魔だったんだね、本当に良かった。安心だね。
木村、お前は長生きしろ、田中さんもまだまだだよ」(第48回)
「篠原さん、来年五月、ヨーロッパに行きましょう。再来年が海外の年ですから、その布石です。
大変ですが、頑張ってください。
篠原さんは、なんとなく目に見えないようですが、光った魅力がありますね」(第54回)
「篠原さんに、社長会を代表して絵をあげる」(第55回)
「篠原さん、お山にお墓を頼んでおいた。
初代の材木屋のおじいさんから入れて下さい」(第57回)
「篠原さんと、戸田先生の会長室で会ったことは不思議だね。あれがなければ、えらい事になったね」(同)
「篠原さんの目が充血していますね。毛細管が咳できれて、影響はないですか。
でも万全をつくして下さい。
『護符』を頂いて、いい医者にみてもらって下さい。大事にして下さい」(第59回)
「篠原さんが社長会代表で行くことは非常に意義があるね。
川端康成が亡くなったね、篠原さんと正反対だね。片やノーベル賞をもらったが、むなしく死んでいった。篠原さんはこれからだ」(第60回)
「篠原さんがこんなに生きると思わなかった。こんな不思議な事が出来るんだから、他はうまくゆくわけだよ。
篠原さんは本当に心配した。私の構想がくずれると思った」(同)
これらの発言を読むと、篠原氏に対する池田氏の言葉使い、遇し方は、特別なものであることがわかります。
また、篠原氏が、池田氏にとってきわめて重要な役割を果たしていたことがうかがえます。その役割とは、篠原氏が川端康成と対比させられていることから考えて、文筆上のことと思われます。しかも、池田氏が「私の構想」というほど重要な仕事なのでしょう。
以上、『社長会全記録』の中の池田氏の発言は、篠原氏が『人間革命』の代作者であることの重要な傍証になり得ると思われます。
病院設立構想
世間には、自前の大病院を持っている宗教団体が少なからずあります。しかし、最大の信徒数を誇る創価学会は、自前の病院を持ちません。
私は、妙法を持った一人の医師として、また、患者の立場になりうる一信徒として、この問題をよく考えることがあります。
正宗の信徒としては、自分が病気になったときには、できれば同じ信仰の医師や看護婦に看てもらいたいと思うのが自然ではないでしょうか。
現在の病院の実状では、たとえ個室に入ったとしても、御本尊を安置してこころゆくまで唱題しながら病気と戦うということはなかなか難しいことです。
正宗の信仰に理解のある医師と看護婦が大半を占めるような病院で、たとえば仏間があっていつでもこころゆくまで唱題でき、御僧侶の法話が聞ける、そんな病院を作ってみたいと思ったこともあります。
平成2年11月29日付けの聖教新聞に載ったスピーチの中で、池田氏は、「ある報道関係者」の言葉として、次のような意見を紹介しています。
「私が学会に強く共鳴していることの一つは、学会が病院をもっていないということです」「世間には、自前の大病院をもっている宗教団体もある。肉体は肉体の問題だとして、近代医学に頼ろうとする。これは、宗教の堕落以外の何ものでもない」
その後、次のように語っています。
「宗教は本来、内なる心の次元から人間を救っていく使命をもっている。ところが、教団と称し精神の救いを説く一方で、教団自体で病院を経営する。そうすることで、自分たちの教えの無力さをおおいかくそうとするばかりか、営利に走る場合がある--そうした宗教としての敗北の姿を鋭く見てとられての言であろう」
平成4年2月18日付けの聖教新聞によれば、
「創価学会は、どうして病院をつくらないのでしょうか」という海外のメンバーの質問に対して、池田氏は次のように答えています。
「戸田先生の遺言なのです。学会は、どこまでも信心の団体であり、文化・平和・教育の展開でいくのだと。
日本のある識者も、この点を高く評価されていました。つまり、世間には自前の病院を持っている宗教団体もある。しかし本来、宗教の使命とは、どこまでも内なる・精神の次元”から人間を救っていくところにあるはずだ。人間が『希望』を胸に生き抜いていくための『精神闘争』『生命闘争』を教えるべきである。
それが、精神的な教えを説く一方で、病院を建て、金をもうけ、民衆を内面から救っていけない自分たちの無力さをごまかしている。
こんな欺瞞はない。宗教者としての根本の使命を忘れた堕落ではないかと、言われておりました」
自前の病院を持つことがいいことなのかどうかの判断はとりあえず置くことにして、池田氏自身のこの問題に対しての過去の発言を、『社長会全記録』に見てみます。
「病院を作る。信濃クラブを診療所にし、第五本部の前に病院を作る。阿部病院、特別室を作る。本当に闘って倒れても、安心が出来る」(第45回)
「薬大の土地十八億、病院にどうだ。病院を新しくやれば百億かかる。それ以下ならばやりたいな。
今、病院は一番悪い。保険拒否で子供の風邪(横松)で七万もとった。悪いやつだ。二万寄付してやったがね。
いい病院を作ってやりたい。三十億位で出来ればいいな。その分、又稼ぎますよ。
大学にも早く医学部を作ろう。佐藤潤一さんの所が繁昌してしようがない。一日二百八十人で、今度家を立てた。
医者は儲かるんだよ」(第49回)
「昭和48年、幼稚園を作ろう。幼児会。48年に女子高。それで様子を見て、大学病院と医学部。本部の近くに土地でも家でもあったら、捜して下さい」(第51回)
「四谷3丁目に組合病院をつくろう」(第57回)
「註」によれば、この時期(昭和46年)、池田氏には病院をつくる構想がありましたが、膨大な費用がかかることなどでとりやめになったそうです。
何のことはありません。創価学会が自前の病院を持たなかったのも、創価大学に医学部がないのも、単に資金が足りなかっただけのことのようです。戸田先生の遺言や、「識者」がおべんちゃらで言うような立派な理由からではなかったようです。
もっとも、池田氏が前言をいとも簡単に反古にすることはめずらしくもありませんが。