宗教と倫理の間(1)
○○寺支部 獅子風蓮
はじめまして。私は、U師の高校の同期生で、獅子風蓮と申します。
現在、千葉県内の病院で勤務医をしています。
名前を見てもらえば明らかなように、いわゆる学会二世として生まれ育ったのですが、いろいろ思うところあって、ここ長い間学会活動には参加していませんでした。今年に入り、U師の勧めもあり、創価学会員であることをやめ、一人の日蓮正宗信徒として生きていくことを決意しました。
所属寺院は東京の○○寺ですが、U師より、今回の脱会に至るまでの「手記」を書いてみないかと言われ、これまでの自分の心の軌跡を一文にまとめてみることにしました。
それまで私は、創価学会員でありながら、そのことに対して誇りを持てませんでした。社会にあって、あえて自分は創価学会員であると名乗ることもありませんでした。
出身校を聞かれることもいやでした。私は創価高校を卒業したので、「創価」の二文字は私に一生つきまといます。もっとも、創価高校の三年間は有意義で楽しかったし、多くの得難い友人にも恵まれましたので、創価高校の思い出自体は大切にしているし誇りも持っているのですが、「創価」の二文字から創価学会を連想されることに耐えられないのです。
私は医師という職業を選び、現在は小児科医として病院勤務をしていますが、受け持ちの患者やその家族から「先生はどこの高校出身?」と聞かれることがあります。そんなとき私は、「いやあ、たいした所じゃないから」とか何とか言ってごまかすことにしています。というのは、難病の子供を持った親は、創価学会員の強引な折伏を受けていることが多く、たいていの場合、創価学会に対してよい感情を持っていないからです。自分の出身校を誇りを持って答えられないということは、さびしく情けないことではあります。
おそらく社会一般の人々の印象も、創価学会に対してきびしいものではないでしょうか。
最近、創価学会に関連した問題が世間を騒がせています。
昭和63年に起こった、田代富士夫公明党議員の砂利船汚職事件、藤原・大橋議員の造反、池田克哉議員のリクルート疑惑、矢野委員長(当時)の明電工スキャンダル。平成元年の1億7500万円入り金庫置き忘れ事件、創価学会員による住職誘拐身代金事件など。今年に入って表面化した、創価学会と日蓮正宗宗門とのトラブル。創価学会「国税調査」と都知事選における「鈴木おろし」および「湾岸戦争90億ドル追加支援」に関して噂される、自民党との裏取引。ルノワールの絵画取引に関する疑惑等、数えあげればきりがありません。これでは世間一般の人々が創価学会を信用しないのも当たり前です。
古くは、「強引な折伏(布教活動)」、「言論出版妨害問題」、「宮本共産党委員長宅盗聴事件」など数々の反社会的行為により社会的な批判を浴び、体質改善を図ってきたはずなのに十分な効果をあげていないのはなぜでしょうか。創価学会という組織には、どうも構造的な欠陥があるようです。
それにしてもここ数年の、創価学会・公明党をめぐるスキャンダルには、目をおおいたくなる気持ちでした。
創価学会の問題に対する私の考えを話す前に、私の立場をはっきりしておかなくてはなりません。
まず、実名で発言することにします。創価学会を批判することによって仕事に差し支えがあってもいけないのでペンネームを使おうかとも思ったのですが、自分の発言に責任を持つためにはやはり実名でやるべきだと思ったからです。これまでの、創価学会に対する批判や、造反者の主張には色々の立場のものがありますが、私が一番不満なのは、匿名で内部告発する人が多いことです。定年後や定年間近に公明党の議員が実名で池田大作名誉会長を批判したこともありましたが、利害が絡んだものが多かったようです。公明党や創価学会の幹部ともあろう人たちがどうしてもっと早く、組織の中枢にいるときに堂々とした批判なり議論なりをしてこなかったのでしょうか。いくら「造反有理」とは言っても、これらの造反者のやり方は、生涯を自分の信念に男らしく生きた日蓮大聖人の生き方と大きくかけ離れたものと言わざるを得ません。
最近、不破優などというふざけたペンネームを使って毎日怪文書を日蓮正宗末寺に送り付けているグループがあるようですが、真に「日蓮大聖人の仏法の本義に帰り大衆のための宗門たらんことを希う」のなら、仮面を脱いで、正々堂々と自分の思うところを主張すべきだと思うのです。今の創価学会および宗門に必要なのは、相手をやりこめるための小細工や策略ではなく、冷静かつ率直に意見を戦わせることではないでしょうか。
それはともかくとして、私は男らしく自分の思ったことを主張したいと考えました。
私の母は、私の兄(二番目の兄)が原因不明の病気に苦しんだことを直接のきっかけとして、昭和29年6月11日に創価学会に入会しました。母は何の疑問も抱かずに、学会の信仰と活動に没頭しました。その後、私はいわゆる「学会二世」として生まれ、両親や兄姉のような苦労はあまり知らずに成長しました。特に自分自身の確たる信仰体験があったわけではありませんでしたが、地元の中学校から創価高校に進学しました。このころまでは、一応自分なりに創価学会・「池田先生」を信じており、疑うところはありませんでした。
昭和51年大学生となり、積極的ではありませんでしたが、学内および地域の活動(創価学会学生部の活動)に参加し、その中で、さまざまな矛盾を感じました。たとえば、自己の信仰が確立していないのにもかかわらず、ノルマ的に強制される折伏活動のあり方に疑問を抱かざるをえませんでした。
ある時、学内の組織(法華経研究会)の先輩から、会合に友人を連れてくるように言われ、クラスメートを一人連れていきました。
先輩は私の級友に「君の田舎はどこか」と聞き、級友は「徳島です」と答えました。先輩は「徳島は真言宗の土地で……」と、日蓮大聖人の「四箇の格言」を持ち出して、級友相手に時代錯誤的で強引な折伏を始めました。私はそれまで、自分では折伏をしたことはなく、目の前で繰り広げられる高圧的な折伏のやり方にショックを受けました。しかし日蓮正宗・創価学会にとって折伏は生命とも言うべきものです。折伏ができないのは自分の弱さゆえではないかと、悩みもしました。
独善的で強引な折伏のやり方の他にも、現世利益的な指導内容や、上意下達的で没討論の組織形態に疑問を感じました。
昭和51年頃のことで、ほとんどの学会員が、素朴に「池田先生は絶対に正しい。池田先生は間違いを犯さない」と信じていた時代のことです。組織の会合にいくら出席しても、私の疑問は解決しませんでした。
私は疑問を解決するために、さまざまな本を読んでいろいろ考えました。そして「創価学会・公明党の持つ批判拒否体質」と「自己の信ずるもののために行なう反社会的行動」の二点に問題が絞れてきました。教養学部二年生のころ「よりよい創価学会をつくるために」というパンフレットを作り、「学会組織を指導体制から討論体制に変革し、討論の場を設ける」という目標をかかげ、組織内改革運動を起こそうとしました。具体的に言うと、パンフレットのコピーを組織の友人や先輩に読んでもらい議論をかわしました。コピーの一部が上に吸い上げられていった結果、県学生部長や学生部書記長といった人たちと討論する機会もできました。正々堂々と「改革運動」を進めたかったので、池田氏にもコピーを一部送りました。
いろいろな人に私の考えをぶつけましたが、私の提起した問題を自分の問題として考えてくれた人は多くありませんでした。私は、同じような問題意識をもっている人がもっと多くいると期待していたのですが、その期待はみごとにはずれました。
私がこのような運動を起こそうとしたのは、もともとは私個人の不満からでありました。ただ、私ひとりだけの不満でしたら、私ひとりが我慢するか離れればすむことです。私が自分の不満を持続させ、このような運動にしたいと思ったのは、私と同じような不満を持つ人および「善意の退転者」とも言うべき人たちに対する連帯感からでした。
しかし、組織内に賛同者が出てこないという意外な現実と、この運動に自分の人生を全てかけても悔いはないかという内面的迷いもあって、この問題から、やがて身を引くようになりました。明確な形をとったわけではありませんが、自分の気持ちとしては、創価学会の組織とは関係を断ち切り、会合には一切出席しないことにしました。
組織を離れることは、時間的余裕ができることでありうれしい事でもありましたが、「退転者」のレッテルを貼られ、心の中に陰を持つことでもありました。
信仰の面では、中途半端で整理がつかず、問題を先送りした形でした。
私は、信仰の「絶対性」に関して疑問を持っていました。たいした苦労も知らずに育ち、確固とした「信仰体験」が欠けていたのも事実です。しかし、受験勉強のおかげで科学的・論理的思考にならされていた青臭い私の頭には、現世利益的な功徳罰論に代表される学会の信仰なるものが、非論理的な恥ずかしいものと思えたのです。
信仰は人格を向上させるはずのものなのに、信心強情な学会員には、人格的に問題のありそうな人がよく見られます。そもそも、「信心強情な」学会員という言い方はありますが、「敬虔な」学会員という言い方は聞きません。二十歳前の大学生には、「クリスチャン」と呼ばれる人たちの方が、社会的にははるかに尊敬されているように思え、羨ましく思ったものです。
しかしキリスト教が仏教よりも優れているとも思えず、日蓮正宗の信徒としての誇りは捨ててはいませんでした。きっと間違っているのは学会の組織の方で、日蓮正宗の方は正しいはずだ。ばくぜんと、そんなふうに考えていました。
また、ひとりの人間としてみたときの日蓮大聖人の信念と行動に対しては、限りない尊敬を感じていました。もっとも、日蓮大聖人は「御本仏」であり、一人の人間としての生き方を云々することは許されないことです。
たしかに、私のような未熟なものが日蓮大聖人という宗教的偉人を論ずる場合、その偉人を自分の程度に引き下げて凡人化して捉えてしまう危険性はあるでしょう。それでも私は、自分の信仰の拠り所を求めて、戸頃重基の「近代社会と日蓮主義」や「日蓮教学の思想史的研究」あるいは内村鑑三の「代表的日本人-日蓮上人-」や「日蓮上人を論ず」といった本を、大学の図書館でむさぼり読みました。そうして、一人の人間としての日蓮大聖人の偉大さを、あらためて知りました。
御書を中心とした教学の勉強もきちんとすればよかったのですが、それはせずに、一般的な学生生活に埋没していきました。かっこよく言えば、学部の勉強が忙しかったということです。
医学部卒業後は、小児科学教室に入局し、そこでさまざまな個性的な先輩に出会いました。そこは、かつての全共闘運動の左翼的雰囲気の残っている所で、社会的弱者、障害者、被差別者の立場でものごとを考える人が、少数ではありますが、存在する所でした。
私は「左翼」という言葉の正確な定義は知りません。「共産主義的であること」と辞書には載っていますが、私はもう少し広く「弱者の視点に立ち行動を起こすこと」という意味で「左翼」という言葉をとらえています。私はこの「左翼的」環境がなぜか気に入りました。さて、私が意識的に否定してきた創価学会は、それこそ貧乏人と病人の集まりと言われ、社会的弱者の集まりそのものでした。私は、創価学会員であると胸を張って言えないひけめを感じながらも、社会的弱者の側に立つという、自分のなかの「左翼」としての生き方を求めて止みませんでした。
数年前より「脳死」の問題が医学界のみではなく一般でも議論されています。私の身近にいる「左翼的」医療人の中にも、「脳死」に対して慎重論を唱える人が少なくありませんでした。
私個人にとっても「脳死」の問題は大きな問題でした。医師として「生」と「死」の問題をつきつめて考えていくと、どうしても自らの宗教観にぶつからざるをえなかったからです。「脳死」を代表とする生命倫理の問題を一人の医師として一人の人間として一人の日本人として真剣に考えてみようとした時、私自身の生死観=宗教観が問われたわけです。自分の信仰の問題を先送りしていた私が、再び自分自身の宗教観を問われることになるとは、何か因縁めいたものさえ感じました。
「脳死」に関する本や哲学関係の本を読み、思索を重ね、文章化することを考えだしたのは、昭和63年の春ころです。そのころの私は、単なる臨床医もしくは研究者としての人生よりも、自己の思想を形成し世に問うような生き方に魅力を感じていました。 同年の秋、一篇の論文に自分の考えをまとめ、中央公論に投稿しましたが、残念ながら掲載には至りませんでした。
投稿論文のなかでも触れていますが、この年(昭和63年)の夏にひとつの事件が起こりました。私の二番目の兄が、仕事中の事故で死亡したのです。
これまで医師として、人の死に立ち合うことがないわけではありませんでしたが、肉親の突然の死に接し、死の問題が、さしせまった重大な問題であると実感しました。兄の死が残された肉親にとって大きな悲しみであったのは当然ですが、死の問題は、それ以上の実存的問題として私をとらえました。
兄の葬儀は、日蓮正宗の儀式にのっとって厳粛にとり行なわれました。「私も、自分が死ぬ時には、日蓮正宗の一信徒として厳かに見送られたい」と私は思いました。
さて、日蓮正宗の一信徒として死ぬこと、言いかえれば、一信徒として生きることは、創価学会に対し拒否感情を持っている私としては、必ずしも容易な道ではありません。しかし強固な決意を以て行なえば、不可能なことではないとも思いました。兄の死を無駄にしないためにも、私の残りの人生を、一宗教人として生きていきたいと思いました。
(つづく)