宗教と倫理の間(9)番外6
○○寺支部 獅子風蓮
今回はまた、本論から少し離れて、最近思うことを書かせていただきます。
それは、この連載の表題でもあります「宗教と倫理の間」の関係についてです。
一般的に言えば、宗教を保つ人は、行ない正しく正直であるべきとされます。
「ウソをついてはいけない」という戒めは、仏教のみならず、キリスト教その他の宗教一般に見られる、基本的な戒めであります。
しかし、分かってはいても、いつも正直には生きられないのが私たち人間の本性です。
これまで創価学会の「ウソつき体質」を何回となく批判してきた私ですが、
「おまえはウソをついたことがないのか」と問われれば、私生活を振り返って返答に窮してしまいます。
少年時代の私は、自分で言うのもなんですが、正直な方だったと思います。ヘンに正義感が強く、それゆえに上級生や同級生と殴りあいのケンカをしたこともありました。単純で思い込みが強く、世間知らずだったとも言えます。
しかし家庭を持ち、社会人として世間の荒波にもまれているうちに、世渡りが少しずつうまくなりました。
情況によっては、真実を話すと相手を傷つけることになる場合もあり、やむをえずウソをつかなければならないこともあります。また私生活上の、単純でささやかな隠し事も、ときどきはします。
後になって後悔し、「もっと誠実に生きよう」と幾度となく決意したりするのですが、あまり長くは守れません。
お酒も好きで、つい飲みすぎ、酔って失敗したこともたびたびです。
お金も好きです。おいしいものを食べることも好きです。
なまけることや遊ぶことも好きで、漫画の本もよく読みます。
女嫌いというわけでもありませんので、酒で自制心がゆるんだときなど、ハメを外すこともたまにあります。
キリスト教では、「姦淫してはならない」という戒めを厳しくとらえているようです。「あなたたちも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、みだらな思いで女を見るものはだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを堕落させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなるほうが、全身が地獄に投げ込まれるよりもましだからである」(マタイオスによる福音)というキリストの言葉は、現実の健康な成人男性には厳しいものがあります。
私自身、一瞬でも「みだらな思いで」女を見てはいけない、という教えは実行できそうにありません。「隣人を自分のように愛せよ」とか、キリストの教えは、実行の不可能なことが多く、かえって偽善を招く危険性があるともいえます。
それはともかくとして、このように煩悩の固まりのような自分ではありますが、思うところあって自分の信仰を真面目に考えるようになり、御本尊さまに「誠実な人間になりたい」と願うようになってから、少しずつではありますが、自分の心をコントロールできるようになったと思います。
このように未熟な自分が創価学会を「ウソつき」と批判していいものかどうか、迷いがあったのも事実です。また、たたけば少しはほこりも出る体ですので、創価学会に歯向かう事によって自分に向けられるかもしれない「言論の暴力」は確かに恐ろしいです。
平成3年1月以来、創価学会は聖教新聞、創価新報、怪文書「地湧」などを使い、連日宗門攻撃のキャンペーンを張り続けています。
特に許せないのは、御僧侶一人一人の言動やプライバシーを一方的に暴き、反論の場も与えず、低俗なスキャンダルに仕立てあげたことです。最近ではスキャンダルの内容もどんどん低俗になり、三流週刊誌のゴシップ記事を読むようです。
「地湧からの通信」13巻には、日蓮正宗のある御僧侶が、「女性従業員に次から次へと手を出す色情狂」として実名で批判されています。事実とすれば大問題ですが、出所不明の怪文書の言うことですから、どこまで本当か疑わしいかぎりです。
また同書には、「反逆者」龍年光氏の私生活も暴かれています。
龍氏とかつて愛人関係にあった婦人部員Aさんの日記を紹介し、龍氏を「際限なく堕落して」いったと批判しているのです。
「愛人を持つこと」は決して誉められたことではありませんし龍氏をかばうつもりもありませんが、かつての創価学会の中にはそういうことに寛大な雰囲気もあったのではないでしょうか。
第一、豪放磊落で知られる戸田二代会長は、Mさんというお妾さんがいたことを隠しもしませんでした。またそれが当時の男性の「常識」だったのかもしれません。戸田門下生を自認する龍氏が愛人を持っていたとしても何の不思議もありません。
むしろ相手の日記を公表させ、それを批判者抹殺の道具に使うという創価学会の執念深さに恐ろしいものを感じます。
人を批判する場合、少なくとも自分の正体を明らかにすべきです。自分は安全な所に身を置きながら、相手の名誉を大きく損なうようなこのような文章を出版することは、絶対に許すことはできません。
新約聖書には、次のようなエピソードが載っています。
「イエススはオリーブ山へ行った。朝早く、また神殿の境内に入ると、民衆が皆自分のところにやって来たので、座って教え始めた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、人々の前に立たせ、イエススに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーシェは律法の中で命じています。さて、どうお考えになりますか。』イエススを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエススはかがみ込み、指で地面に字を書き始めた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエススは身を起こして、『あなたたちの中で罪を犯したことのない人が、まず、この女に石を投げなさい』と言った。
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けた。
これを聞いたものは、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエススだけが取り残された。女はその場に残っていた。イエススは、身を起こして尋ねた。『さあ、みんなはどこにいるのか。だれもお前を罪に定めなかったのか。』
女が、『主よ、だれも』と答えると、イエススは言った。『わたしもお前を罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハンネスによる福音)
このエピソードは、聖書の中でも特に私の好きな箇所です。自分のことは棚にあげて他者を一方的に批判することの誤りを、この話は教えてくれます。
私は日蓮正宗の信徒ですから聖書を引用したのは、信仰の次元からではありません。「外道」の教えにも、一面の真理を見つけることはできると思うのです。そこのところは誤解のないようにご理解下さい。
一方、トインビーとの対談集『二十一世紀への対話』で、「出版の自由の限界」を論じる中で池田氏は次のように述べています。
「次に、第三の、個人の人格の尊厳を侵すような場合ですが、私は、出版の自由がただちに規制されなければならないのは、こうした場合であると考えます。日本には『人の口に戸はたてられない』という諺がありますが、たしかに、人々があれこれと噂ばなしをするのを規制することはできません。しかし、それを活字にして大量にばらまくことに対しては、法的に抗議し、停止させる権利があってしかるべきだと思います。」
『二十一世紀への対話』は『人間革命』などと同様、池田氏本人でなく代作者がいる疑いがもたれてはいますが、少なくとも自分の名前で出版された著書の主張には責任を持っていただきたいと思うのです。そして、個人のプライバシーを暴き低俗なスキャンダルに仕立てる、現在のような宗門批判・「造反者」批判を直ちに止めるよう指示を出していただきたいと思います。
宗教と倫理の間の問題に戻ります。
創価学会の組織に疑問を感じはじめた大学生のころから、少しずつ私は、自分が創価学会員であることに対して誇りを持てなくなりました。
そしてここ数年、公明党幹部の汚職事件や創価学会の金銭がらみのスキャンダルがマスコミをにぎわせるたびに、私は恥ずかしい思いをしました。
同じ信仰をもった人たちが反社会的行為をしたこと自体恥ずかしいことですが、何よりも不満だったのは、記者会見などで公明党および創価学会の幹部たちが、指摘された疑問に対して誠意ある説明を行なってこなかったことです。
たとえば平成元年に発覚した謎の「一億七千万円金庫」騒動について、学会側はすでに過去の人である中西治雄氏に責任をなすりつけた印象がありました。
平成3年に発覚した「ルノワール疑惑」でも、池田氏の裏金作りでは、という疑いが晴れていません。この件に関しては、記者会見における学会側の主張が二転三転しました。
誰の目にも学会が何かを隠そうとしていることが明白でありました。
宗教団体ともあろうものが、公の場でウソをついてもいいものかと、私は憤りと恥ずかしさを感じました。
私は、「信仰者は倫理的であるべきだ」と漠然と考えていた時期があります。そして、自分を含めた創価学会員には、あまり倫理的でない人が多かったのです。
「信心強情」と呼ばれることはあっても「敬虔な」とは言われない学会員を恥ずかしく思い、世間的には尊敬を受けることの多いキリスト教徒を、何となくうらやましく思ったことがあります。
しかしながら自分は、キリスト教的戒律では決して救われることのないことも承知していました。なにしろいつも煩悩の固まりなのですから。
「倫理的でありたいが、そうなれない」というジレンマを感じながら、あるとき(昭和63年ころ)同窓の何人かの友人の集まりに出席しました。
その時U先生に、創価学会の非倫理性について質問したことがあります。
その時私は、日蓮正宗における「戒」の意味を、あらためて教えていただきました。
なんと、日蓮正宗では御本尊を保つことが唯一の「戒」だというのです。「末法無戒」つまり末法の時代に生きる私たちには、その他の小乗教的な厳しい戒律を守ることは難しく、またその必要もないというのです。そういえば、私たちが入信するときの「御授戒」というのはそういう意味だったのですね。
このような正宗における戒のとらえ方は、私のような意志の弱い人間の救済という意味では、まことにありがたいものです。欲望をただ抑えつけるのではなく、御本尊に対する信仰によって欲望を昇華させ、より高い境涯へと宿命を転換させていくというのは、思想的にもすぐれていると思います。
私は、自分も含めて創価学会員はもっと倫理的に生きるべきだと、漠然と考えていました。正宗の深い法門は知らず、浅い外道的な意味において、宗教的戒律の必要性を感じていたのかもしれません。ところが、U先生の予期せぬ答えに、自分の考えの浅かったことを思い知らされました。
私の属する○○寺の御住職であります高野日海御尊能化様は、大白法の論苑で次のように述べておられます。
「古来我が門は、味噌の味噌臭きと耶蘇の耶蘇臭きは鼻持ちならぬと、その偽善とたたばわの戒律(赤ん坊に<立った立った><ウマウマ>等と歩き方や初歩的な言葉を教える程度の仏とその教え、小乗教)を批判して、不断煩悩不離五欲、ありのままの無作無戒の中に信を立てて正直に捨方便の妙道を歩んで来たのである。
されば大聖人は『このさけはたたかにさしかわして、かつかうをはたとくい切りて一度のみて候へば火を胸にたくがごとし』と飲酒を公表して五戒を超え、『日蓮は旃陀羅(せんだら)が家より出でたり』と殺生の身、出生の貴賎等意に介さない。」
「末法無戒」というのは、このように意味の深いものであることが分かりましたが、ややもすると堕落につながりかねない落し穴が潜んでいると思います。
「南無妙法蓮華経には倫理がない」とキリスト者の内村鑑三は言いましたが、たしかに「無戒」を悪用して自分に都合よく解釈すれば、果てしのない堕落が待っています。
現に創価学会は、会員の欲望を信仰のエネルギーにして大発展をみましたが、実態は顕益偏重の「現世利益」的指導が多かったようです。
たとえば正本堂御供養にさいして、
「御供養金が多ければ多いほど、それだけ功徳が大きい」
「御供養すれば、田園調布のような高級住宅街に住めるようになる。外車も二台ぐらいもてるようになる」というような話があちこちの座談会でなされたようです。
その結果あっというまに355億円もの御供養金が集まったというのですが、それだけ当時の創価学会員の欲が強かったということかもしれません。
現在は「平和・文化・教育」をかかげて、ずいぶん格好のいいことを言っていますが、根っこの所は変わっていないと思います。
その創価学会が、今では宗門にたてついて、偉そうに御僧侶にむかって「少欲知足」を説いたりするのですからおかしなものです。
欲望を否定しないのはまだ良いほうですが、ウソつきはいけません。
創価学会の「ウソつき体質」はどこから来たものでしょうか。
私は、牧口先生の価値論を弟子たちが意図的に誤解したことに原因があるように思います。「真理は認識の対象であって、評価の対象ではない」という牧口先生の価値論そのものはすぐれた学説だと思うのですが、戦後の創価学会では独特の使い方をしたようです。今は絶版となっている折伏教典には「小善に安んじて大善にそむけば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる」等と書かれていますが、このような功利的な価値観は庶民にも分かりやすく、容易に受け入れられたようです。そして日蓮正宗の信仰およびその布教が大善に結び付けられました。
言論出版妨害問題のとき、公明党の竹入委員長(当時)は、創価学会・公明党に批判的な本を出版しようとした人に対して、次のように言いました。
「私たち公明党はなにをどう批判されてもかまわない。しかし池田大作会長の批判だけは許せない。断固闘う。池田会長の出てくるところは全部削ってほしい」
池田会長を守ることは広宣流布という「大善」につながります。そのためには多少の「小悪」はかまわないという意識が、知らず知らずのうちに創価学会員の中に浸透していたのではないでしょうか。目的のためには手段を選ばず、というわけです。
赤旗がこの問題をスッパ抜いたとき、創価学会・公明党は当初、事実を否定していましたが、批判の嵐は止まず、ついに昭和45年5月3日、池田氏は事実をほぼ認め、社会に向かって謝罪しました。
池田氏は、有名なヴォルテールの「私は、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれをいう権利を、私は命をかけて守る」という言葉を引用して、明確に言論の自由尊重を誓いました。そして、「今回の問題は、余りにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまでは批判に対して、余りにも神経過敏になりすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶を作ってしまったことも認めなければならない。今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したいのであります」と、創価学会の体質に言及して反省を見せました。
しかしその後の創価学会・公明党の行動を見て分かるとおり、池田氏は本気で反省し体質改善をはかるつもりはなかったようです。
創価学会・公明党の「ウソつき体質」「謀略体質」「目的のためには手段を選ばず」といった体質は、その後も解消されず、さまざまなスキャンダルを引き起こす結果となりました。
結局私はこう思うのです。
私を含めた一人一人は凡夫ですから、宗教的に厳しい戒律でしばることは意味がありませんし、我が宗の教えでもありません。「末法無戒」ですから、御本尊を保ち自行化他の実践の中から自然と人格を研いていけばいいでしょう。
しかし信徒の組織にあっては、そのリーダーは常に正直であるべきだと思うのです。厳しい倫理的規範を持つべきだと思うのです。
その規範はどこに求めるべきでしょうか。
私は、日蓮大聖人の生き方のなかに偉大な倫理的規範を認めます。
日蓮大聖人は、常に正義を追求し、不正義を攻撃されました。
しかも、開目抄に「……なんどの種々の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり」(その他のいろいろな大難が起こってきても、智者に日蓮の立てる法門が破られないかぎりは絶対に他の教えに従うことはありません)と書かれておられますように、偏狭な独善とも無縁でいらっしゃったと思うのです。
このように、独善性を排した破邪顕正の折伏精神は、私たちの誇るべき倫理規範となりえると思います。
御本仏である日蓮大聖人さまの生き方を云々することは、あるいは不適当かもしれませんが、大聖人さまのように正義を追求し信念に生きる男らしい生き方を、私もしてみたいと思います。