宗教と倫理の間(7)番外5

○○寺支部 獅子風蓮

『脳死問題に関する一考察』に対する疑問

連載の2回目に、「脳死問題に関する一考察」に対する疑問を投げかけました。今回は、その根拠についてもう少し詳しく述べてみたいと思います。

池田氏は昭和62年に3回にわたって「東洋学術研究」という雑誌に、「脳死問題に関する一考察」という論文を「特別寄稿」しました。

前に述べましたように私自身、脳死の問題に関心を持っていました。

昭和63年ころ友人から池田氏が脳死に関する論文を発表したときいて、ぜひ読んでみたいと思っていましたが、一般の書店や図書館では「東洋学術研究」を置いていないため、なかなか読めないでいました。

その後、たまたま知り合いの看護婦さんで学会員の人がいて、この論文のコピーを貸してもらうことができました。

「-日蓮大聖人の仏法の視座から-」という副題のついたこの論文は、医師の私からみても的確な医学的知識と、深い仏法上の議論をふまえた、読みごたえのあるものでした。

論文はまず、「医学論としての脳死」を解説図入りで詳細かつ正確にまとめ、その問題点を整理しています。ついで「仏教、特に日蓮大聖人の仏法における臨終・死の在り方」を論じ、「仏教の視座に浮かび上がる脳死」への一考察に移っていきます。科学者の書くように、体系的で論理的な、りっぱな「学術論文」です。

内容的には、さまざまな角度から、「仏教における死の問題」を取り上げており、重要な示唆を含んでいると思いました。

深昏睡にある患者の「意識」は、表面的にはほとんど存在しないと、私たち医師は考えますが、患者の内面的な「意識」がどうなっているかは、知る由もありません。それゆえ「しかし、自発呼吸が停止し、意識のレベルが低下し、深い昏睡に陥ったようにみえる状態(つまり、深昏睡)にあっても、なお自らを感じ続けている生命主体があるという洞察は脳死問題の討議に重要な視点を提供しているといえよう」(脳死問題に関する一考察[一]144ページ)という指摘は、注目に値します。

また、私たち臨床医は重症の末期患者(脳死状態の患者は、その中の最も重症の例です)を前にして、延命治療の是非を思い悩むことが少なくありません。

脳死状態になってからの治療方針を決めるとき、日蓮大聖人の仏法に照らして、「死にゆく生命(魂)が脳死状態において、どのような経過をたどっていくかということが重要な視座に」なっていくと、本論文の2回目第4章に述べられています。

「脳死状態では意識は消失し、深い昏睡状態にあるが、この時点でも患者の生命は、その心の奥底の次元で種々の体験をしている可能性があることを医師や家族たちは十分に考慮しておく必要があるように思われる。

日寛上人が、死しても(この場合は、脳死状態に陥っても、ととらえてよいであろう)、なお2時間は題目を唱えるようにと述べられたのは、底心(魂)に題目が送り届けられ、死にゆく生命に影響を及ぼすことを示されるためである。すなわち、生者の行為が、心身の表面から消失してしまったように思われる死にゆく生命主体(魂)と交流することが可能であることを教えられたものである。たとえ意識の表面、現象面では、他者と全く断絶しコミュニケーションの能力を失ったかのようにみえる生命であっても、心の奥底での交流は行なわれていると推察されるのである。特に、家族、親しい人とのコミュニケーションは、生命主体が確実に身体を去りゆくまで存続してゆくものと思われる。

また、たとえ生命が既に『死有』を過ぎて、宇宙生命へと融合していったとしても、生者の側の心奥の思いや、心情は死せる魂に感応していくものである。

脳死状態で、意識が消失し深い昏睡状態にあっても、患者の生命はその奥底の次元で種々の体験をしている可能性があることについては、種々の仏典からも裏付けることができる」(脳死問題に関する一考察[二]146ページ)

仏法の思想にもとづくこのような考察は、脳死問題の討議に重要な視点を提供しているといえるでしょう。

じつは私自身も、医師として主として西洋医学を学びながらも、生と死を、また肉体と精神をきれいに分けて考えるという西洋合理主義的な考え方に違和感を感じていました。ですから、この論文の考察は私の考えていたことと多くの共通点を持っていました。

「尊厳死」の問題についても、言及されています。

「通常、人間の尊厳という時、個体としての『人間』のみを独立させて、その尊厳なることを自明のごとく説くのが普通であり、『尊厳死』論者の抱いている概念でもあろう。しかし、仏教の視座に立つ時には、この通常の次元の個体としての『人間』をもって直ちに尊厳とは説かず、通常の『人間』の概念の奥底にある生命の実相を備えた存在ということまで見通したうえで、尊厳であるとするのです」(脳死問題に関する一考察[二]147ページ)

少し分かりにくい文章ですが、後に述べられているように、

「仏教においては、通常の人間から仏性に目覚めて成仏への道を歩む“過渡的存在”として人間をとらえるダイナミックな人間観がとられるのである。言い換えれば、人は“真の人”(仏)になっていくところにその価値があるというのが仏教の立場である」(脳死問題に関する一考察[二]148ページ)というのです。

これは正直言って、すごい指摘だと思いました。これまでの欧米中心のバイオエシックス(生命倫理学)にはなかった考えで、すばらしい可能性を秘めた思想だと思います。

それにつづく文章も示唆に富むものです。

「家族達が十分に別れを告げ、死を受容した場合には、死にゆく魂と愛情あふれる交流を図りつつ、人工呼吸器を外すことも、ありうるのではなかろうか。このような観点に立つ時、現今の『尊厳死』運動には、危惧を抱かざるをえないのである。それは、患者と家族達との深い心の中での交流に対し十分な配慮がなされているかという点についてである。『尊厳死』論者は、意識が消失し、回復の可能性が失われた状態になれば、人間としての尊厳性を保つことはできないと主張している。しかし、たとえ意識の水準が下がり、深い昏睡に入っているような生命でも深い心の中での交流はありうるのである。その人が人間としての尊厳性を保ちつつ生から死へと入っていけるかどうかは、人工呼吸器につながれているか否かとか、意識が消失しているか否かとかの次元の問題ではない。たとえ脳死状態に陥っても、周囲の人々から“モノ”としてではなく、“法器”としての尊厳なるまなざしと慈愛のこもった看護、医療行為を受けられるかどうかが問題なのであり、また死にゆく生命がその時、何を体験し、いかなる境涯にあり、周囲の人々の心とどのように交流し合っているかが重要なのではなかろうか」(脳死問題に関する一考察[二]150ページ)

ただ本論文は、脳死を個体死と認めるかどうか、また脳死を個体死として積極的に臓器移植を推進するかどうかについて、結論を出していません。

たとえば「“脳死サミット”のような公式の場で、時間を十分にかけ、各界の代表者が議論する」(脳死問題に関する一考察[二]140ページ)ことを提案したり、「バイオエシックス・センター(生命倫理研究センター)」あるいは「インタナショナル・バイオエシックス・カンフェランス(国際生命倫理会議)」の設置を提言し(脳死問題に関する一考察[三]130ページ)、そこで議論を深めることを提案しているにすぎません。

また、「脳死立法」に関しては、

「ところで、現状では、脳死状態を人間の死であるとする一般的な認識が、すでに成立しているとは到底いえない状況であることに誰人も異論はないであろう。とすれば、医師などの専門家はもちろん、広く国民の前での議論を尽くして、社会的合意の形成に十分な努力をなすべきであると考えるのである。

社会的合意が容易に形成されない場合に、混乱を避けるために立法による解決を図るべきだとの意見もあるが、脳死問題のように、人間の生死の基幹領域に関する事柄を安易に立法的解決に委ねることは慎むべきではなかろうか」(脳死問題に関する一考察[三]115ページ)と、消極的な姿勢を示しています。

今年に入ってすぐ、「臨時脳死及び臓器移植調査会」(脳死臨調)が二年にわたる審議を終え、最終答申を提出しました。少数の反対はあるも、大多数は脳死を個体死と認め、脳死体からの臓器移植を認める内容となっています。

これに対して平成4年1月28日の聖教新聞は「臓器移植へ踏み出した臨調答申」という社説を載せました。その中に次のような記述があります。

「池田名誉会長は、すでに昭和62年に『脳死問題に関する一考察』を発表。脳死の容認と臓器移植の在り方を示し、更に生命倫理(りんり)やその根底にある生命観、死生観などを地球人類という視野で国際的に討議する場として、仮称『国際生命倫理会議』の設置を提案している。その先見性が大いに輝き始めた。」

社説の言う「脳死の容認」という部分は明らかなウソです。

一般の会員は、「脳死問題に関する一考察」など覚えていないと甘く見たのか、ここまで事実をねじ曲げた記事をよく書けたものです。

くりかえしますが、「脳死問題に関する一考察」では、脳死を個体死と認めるかどうか、また脳死を個体死として積極的に臓器移植を推進するかどうかについて、結論を出していません。

少し横道にずれましたが、以上見てきましたとおり、本論文は内容的に高度ですばらしい論文だと思います。

それでは何が問題なのかと言いますと、じつはすばらしすぎるところが問題なのです。 たいへん生意気な言い方になりますが、池田氏がこんな論文を書けるはずがないと、私は一読して思いました。

まず第一の疑問点は、このように重要な論文をなぜ、聖教新聞や大白蓮華といった機関紙・誌に載せず、創価学会員でさえあまり読むことのない「東洋学術研究」という専門学術雑誌に寄稿したのであろうかということです。

「東洋学術研究」は、創価学会の外郭団体である財団法人「東洋哲学研究所」が発行している学術雑誌です。一般の書店には置かれていないので一般的にはあまり知られていませんが、中村元、三枝充悳といった著名な仏教学者が寄稿しており、権威を高めるのに一役買っています。

総合雑誌「潮」が「法外な原稿料」を武器に知識人を創価学会シンパに取り込むのに成功したように、「東洋学術研究」は仏教学者を創価学会の味方にするのにおおいに役立っているのでしょう。

それはともかくとして、池田氏がこの論文をわざわざ「東洋学術研究」という目立たない雑誌に発表したのは、論文の発表に際して後ろめたいものがあったからではないでしょうか。

第二の疑問点は、医師である私がこの文章を読んで、明らかに医師にしか書けないと思われる文章表現が、随所に認められる点です。その中のほんの一例を示すと、

「……医療の現場では、そのような患者はあまり時間をおかないで人工呼吸器(レスピレーター)につながれる。そうすると患者は深い昏睡を示しながらも、心臓は拍動を続けるという姿を見せる。こうして、脳死状態に陥るのである。故に、脳死では人工呼吸器が絶対に必要なのである。換言すれば、現代医療の発展による人工呼吸器が開発される以前においては、脳死問題は起こりえなかったのである。その意味では脳死は現代医学に特有のきわめて象徴的な現象といえるであろう」(脳死問題に関する一考察[一]132ページ)

「……現代医療では、様々な原因によって自発呼吸が停止した場合、人工呼吸器を装着することが一般的である。人工呼吸器を用いなければそのまま死に至るわけであるが、人工呼吸器の装着により、ある場合には蘇生させうるし、そうでない場合でも延命効果は期待できる。したがって人工呼吸器の装着は十分意味のある治療法(処置)と考えられる。しかし、一方では、この装着自体がまた新たな問題を生み出しており、その一つが脳死問題であった。前稿(第1回・第2章)でも詳述したように、脳死問題は人工呼吸器の装着なしに起こりえないのである」(脳死問題に関する一考察[二]136ページ)

このような文体は池田氏自身のものではないと、私は思いました。

「医学論としての脳死」に関する部分は、ほぼ百パーセント、代作でしょう。それ以外の部分については、池田氏の主張らしいものも認められますが、おそらくかなりの部分は代作と推定されます。ゴーストライターは、創価学会ドクター部あるいは学術部のメンバーといったところでしょうか。

池田氏はこれ以前にも、『生命と仏法を語る』(潮出版社、昭和61年)で医学の問題について言及しています。この本の著者は池田大作一人となっていますが、実際は東大病院(当時)の屋嘉比氏との対談をまとめたものです。この対談の最初で池田氏は、「私は医学には全く素人なので」と述べています。実際、医学的な問題は主として医師である屋嘉比氏が語り、池田氏は仏教的な面で議論を深めるという形で、対談は進んでいます。 実際に、単行本をお持ちの方は読み返してみるといいと思いますが、この対談の中の池田氏の話と、本論文の文体がどうしても連続しないのです。『脳死問題に関する一考察』が池田氏一人の名前で発表されていることは、明らかに不自然なことです。

この論文が内容的に優れたものを含むことは認めますが、それだからこそなおさら、著作者に疑惑が生じた点が悔やまれてなりません。

池田氏は、会内的に連日のように「スピーチ」を行なっていますが、それ以外にも、「非暴力に関する私の一考察」(平成2年9月20日付け聖教新聞)、「大いなる人間世紀の夜明け」(平成3年1月26日付け聖教新聞)、「湾岸戦争への緊急アピール」(平成3年2月1日付け聖教新聞)、「希望と共生のルネサンスを」(平成4年1月26日付け聖教新聞)、「地球環境の保全に向けて」(平成4年4月17日付け聖教新聞)など多くの提言を全世界に向けて発表しています。

それぞれの内容はきわめて高度で、体系的な、説得力のある論文です。それらの論文を読まされた世界の知識人の「感想文」が、数日後の聖教新聞を飾ります。

しかしどんなに立派なことが書かれていても、ふしぎと深い感動を覚えることはありません。

これまで私がいくつかの例をあげて実証してきたように、池田氏の発表する文章には、つねにゴーストライターの影が付きまといます。

会内ならまだしも、全世界に向かって偽りのまじった提言を発表しているとしたら、その罪は小さくはないでしょう。