宗教と倫理の間(8)本論3
○○寺支部 獅子風蓮
「番外」はひとまず終わり、今回から本論に戻ります。
時期を少し戻します。
平成2年2月に東大に助手として戻ったとき、私は医学の勉強以外にやりたいことがありました。哲学、宗教、生命倫理に関する私なりの思想を、まず理論化、体系化してみたいと思ったのです。釈尊から始まる仏教の思想を完全に理解することは不可能ではありますが、インド・中国・日本という三国の思想の合作たる日本仏教思想から、現代に生きる思想を抽出したいと思っていました。
一方、本職である医師として、大学病院で難病の子供たちの治療にあたって、現代医学の限界と矛盾のようなものを感じました。
大学病院の小児科には、予後の著しく悪い白血病や複雑心奇形の子供や、重い染色体異常の新生児など、いわゆる難病の子供たちがたくさん入院しています。
「生存率」という数字を絶対的基準として、最新の科学的な技術を使って、治療・延命していくのが本当に正しいのか、時に疑問を感じたのです。
S君という1才くらいの子供がいました。彼は、急性骨髄性白血病という病気で、強力な化学療法を行なってもよくならず、望みは一割だと言われていました。化学療法は非常に苛酷です。治療でいじめにいじめぬいて、その結果死んでしまうというのではたまらないというので、医師の説得を振りきって、両親は子供を自宅に連れ帰りました。両親の気持ちも分かる気がした私は、両親と両親を非難する医師との間にはさまれて悩みました。
重い神経疾患で意識もなく、人工呼吸器につながれ、延命処置を受けている子もいました。だれもが延命を当然として、その子の処置にあたっていましたが、私は内心、この子にとっての延命の意味を考えることもありました。
こういった、生命倫理の問題に、すっきりした解答はありません。
仏法思想の中には、いたずらに生に執着することは苦を生み出すという思想があります。
輪廻転生の生命観からすれば、現世の病気の克服あるいは単なる延命のために、必要以上に苛酷な医療処置をすることは意味のないことになります。
かといって私も、医師のはしくれですから、目の前の患者をすべて自然に任せ、放っておくこともできません。医療行為はすべて、自然に逆らうこととも言えるからです。
戸田二代会長の「生命論」にもあるように、私たち創価学会員は、「命はこの世かぎりではない」と教えられてきました。しかし、以前の私は、近代合理的な思考が身についていたため、なんとなくこのことが信じられませんでした。
たしかに「永遠の生命」を論理的に証明することはできません。しかしまた、これを否定する証拠もありません。
「自分が死んだ後に全くの無になることが、実感として納得できない」と言った科学者がいたと聞いています。
難病の子らを受け持って、ある日私は「三世の生命観」がすっと、信じられるようになりました。来世の存在を信じることによって、病気の彼らの存在は意味を持つと実感したのです。
成人の患者の場合は、子供とは違った問題が起きます。癌などの予後の悪い病気に関する「告知」の問題です。
あるとき先輩の医師が、肺癌で入院しました。医師ですので隠し通せるものではありません。告知されたうえでガンセンターに転院しました。もっとも脳への転移は伏せられていたようです。「三世の生命観」に立った信仰がある学会員の場合は、たとえガンと告知されても、前向きに病気と戦え、死の不安も軽いと聞いていましたので、この先生にもこの信仰を教えてさしあげたいと思っていましたが、病気の進行が早く、その機会はありませんでした。
このような経験を通して、(不完全な現代)医療を支えるものとして宗教的思想が不可欠であるという結論に達しました。とりわけ、仏法で説かれている三世の生命観に立ったとき、生命倫理上のさまざまな悩みに、解決の糸口が与えられると確信しました。
そのためにも、先送りしていた自分自身の信仰の問題と取り組む必要がでてきたわけです。
その後、平成元年9月に病院を変わりましたが、創価高校の同窓生の勧めもあって、このころから聖教新聞を講読しはじめました。
以前から創価学会内部の情報を得る手段として、聖教新聞をとりたいとは思っていたのですが、付随する人間関係が煩わしいのでためらっていたのでした。
久しぶりで読む聖教新聞は、懐かしくもあり、興味深い記事も少なくありませんでした。
池田名誉会長のスピーチも、素直に読むと、なかなかいいことが書いてありました。もちろんこれは、宗門に牙を向ける前のことですが。
たとえば、平成元年12月1日の聖教新聞に載った「第9回全国婦人部幹部会での池田名誉会長のスピーチ」を読んで、ずいぶん昔の指導と違ってきたなと思いました。良い意味で、です。
池田氏は人生にとって「心」の姿がどれほど大切であるか、ということを、アメリカの作家エレナ・ポーターの名作『少女パレアナ』を通して語りました。
……幼くして両親を亡くした少女パレアナは、母の妹である叔母のもとに引き取られる。
叔母は裕福だが「心の乾いた」女性であった。姪を引き取ったのも、決して「愛情」からではない。彼女が人生で最も大事にしている、「義務」からであった。引き取らなければ世間体が悪いという気持ちもあった。
ところがパレアナには、亡き父親と約束した、ある「ゲーム」があった。
それは、「何にでも”喜び”を見つける遊び」である。
例えば、パレアナが駅に到着したとき、叔母は迎えにもこない。少女にとって、未知の土地である。不安もある。期待もある。普通なら”どうして来てくれないのかな”と悲しみ、恨むかもしれない。しかしパレアナは、変わりに来たメードのナンシーに言う。
「叔母さんが迎えにきてくださらなかったのがうれしいの。だって、まだこのあと叔母さんに会う楽しみがあって」と。彼女は、心からそう思おうとしているのである。
叔母の家に着く。そこでも少女は、冷たく迎えられる。立派な部屋が他にたくさんあるにもかかわらず、なんにもない屋根裏部屋をあてがわれる。
しかし、ひとたびはがっかりしたものの、パレアナは、また気を取り直す。
なんにもない部屋。これをどう喜ぶのだろうか。彼女は思う。
「かえって片付けが早くすむからいいわ」
「鏡のないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスもみえませんものね」
絵もない部屋……。しかし屋根裏から見える風景に、
「あんないい風景があったら、絵なんか見ないでいいわ。叔母さんがこの部屋をくだすってうれしいわ」と。
一事が万事、パレアナは、つらい境遇の中にあって一生懸命、「喜び」を見つけようと努力する。
この「パレアナ遊び」は「喜ぶことをさがしだすのがむずかしければむずかしいほどおもしろい」と彼女は言う。
この遊びが次第に広まっていく。
その他のさまざまなエピソードは省略するが、この調子で少女は周囲を変えていく。
……パレアナの物語は、アメリカ中に広まった。そしてある辞書には「パレアナ」の名が「喜び」を意味する言葉(普通名詞)として載せられるまで定着したという。
この話を引き合いにして、池田氏は仏法の「一心の妙用」「一念随喜」「随喜功徳」という言葉に結びつけ、「心にあふれる喜びの光……そこに信仰の証明があり、境涯のバロメーターもある」「その意味でどうか、厳しい現実の生活も、豊かな心で『楽しみ』ながら、強くまた強く、価値ある人生を創っていっていただきたい」とスピーチしている。
正直に言って、このスピーチはすばらしいと思いました。
かつて、私は創価学会の露骨な、顕益偏重の「功徳罰論」が嫌いでした。棚ぼた式に功徳を望んで、信心をするというのは、なんとなく二流の宗教のように思えたのです。
もっと信仰というのは、心の内面を見つめるものであるべきだと思ったのです。
ですから、「パレアナ遊び」に宗教の本質があるという、このスピーチの内容は、私にとって受け入れやすく、理解しやすいものでした。
そのほかにも、このころの池田氏のスピーチにはいいものがありました。おそらく、ゴーストライターが資料を集め原稿を作成するのでしょうが、その選定には池田氏の意向が反映されているのでしょうから、あえて文句は付けません。
こういった池田氏のスピーチは多くの学会員たちに好意的に受け取られ、会員の優れた教育になっていたことも事実だと思うのです。
私のまわりにも、学会員の知人や仕事仲間がいて、それぞれいい人たちでしたので、ふと「なんで自分は学会の組織について活動しないのだろう」と思うこともありました。
しかし、平行して進めていた「創価学会研究」の方からは、創価学会の別の面が浮かび上がってきたのです。以前に指摘した、「情報操作」や「ウソつき体質」といった問題です。
自分にはやっぱり、自分にしかできない仕事があるのではないかと考えました。
とりあえず、仕事の合間に自分の考えを少しずつ形にしていこうと考えました。
高校の同級生を中心として、何人かの創価学会員に会って自分の考えを話したり、手紙を書いたりしました。創価学会には「潮」、「第三文明」といった出版部門があることはあるのですが、創価学会に批判的な論文を載せることはありえません。マスコミを安易に利用することはためらわれます。結局、創価学会のありかたについて自分の思うことを発表しようと思っても、自由に発表できる場が、私たち一般の会員にはないのです。
自由な言論の場として、ミニコミを作ろうと思いました。
最終的には、創価学会とは別の「第二学会」ともいうべき団体に発展できればいいと思いました。
当時、私が考えていたのは、創価学会の枠にとらわれず、令法久住と広宣流布のための純粋な組織を作れないかということです。現在の創価学会は、残念ながら、いまだ社会的な認知を受けているとは言えません。また、創価学会の体質は容易に改善できないと、私は見切りを付けています。私の考えた新組織は、牧口初代会長と戸田二代会長、池田三代会長(ある時期以前のみ)の精神的遺産を受け継ぎ、社会への貢献と世界平和を目指した組織にしたいとおもいます。またこれまで指摘されたさまざまな問題点に関しては、日蓮正宗の信徒としての立場を守りながら、オープンな議論のなかから自分たちの思想を高めていきたいと思いました。
「反学会の運動を軽はずみに起こせば必ず圧力がかかって消耗するだろう。やめた方がいい。」と忠告してくれる友だちもいました。
創価高校の時の同級生は、割合クールに創価学会の問題を理解している人が多いのですが、自分なりに納得して学会のなかで生きている人たちが多く、多くの賛同者を得るにはいたりませんでした。
私は一つ確かめたいことがありました。
それは、池田氏に直接会って、自分の目で池田氏の人物を確かめることです。「だめでもともと」という感じで、私は池田氏に手紙を書きました。平成元年11月8日のことです。
結局、返事をもらうことはできませんでした。
そうこうしているうちに、平成3年の正月を迎えました。元旦の聖教新聞は、御法主日顕上人の「新年の辞」も掲載されていて、いつもと同じでした。ところが1月4日の聖教新聞の第一面を見ると、「宗務院の不当な措置に抗議」という記事が載っているではありませんか。最初のうちは事態がよく飲み込めませんでしたが、その後の聖教新聞のキャンペーンの張り方は異常なものでした。
この問題に関する私の考えは、少し長くなると思いますので次回にさせていただきます。